山岳信仰や修行、狩りの為だった「登山」を国民的スポーツにした男・高頭仁兵衛【その1】 (2/3ページ)
深沢小学校、片貝高等小学校などを経て、二松学舎に学ぶかたわら、皇典講習所で国学、漢学などを学ぶ一方、文学書を好み、伝記や物語、講談なども乱読していたそうです。
生来虚弱な体質でしたが、塙保己一の伝記を読んだことから、学校までの12キロの距離を徒歩で往復し、健康を取り戻しました。
高等小学校では、苗場山の開拓者で清津峡の名付け親としても知られる大平晟(おおだいらあきら)と出会い、師事します。13歳で弥彦山を登り、県境に連なる山岳の景観に感動して、登山の趣味を体得しました。
16歳の秋、趣味の花火製造中に誤って右手と両目を負傷、これが人生に大きく影響することになります。
1896(明治二十九)年春、実父の死去に伴い、九代目仁兵衛を継承、「義明」と名乗って、本名を式(しょく)、号を「海峰」と称しました。
1900(明治三十三)年5月には、徴兵検査も受けますが、身長不足で不合格になってしまいます。8月に富士山、苗場山に登山したことをきっかけに、仁兵衛による全国の山岳踏査が始まります。
越後一の豪農といわれた市島家から、二女のレイ子を妻として迎えるのも、この年の11月のことでした。