考えが甘すぎ!?幕末期に明け渡された江戸城、実は「すぐ返してもらう」つもりだった【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

彼らは常に佐幕派からの襲撃に怯えていましたし、幕府側に江戸城を返して、100万石程度の領地を安堵すればいいのではないか、という意見がほとんどだったのです。

しかし、京の新政府の大多数の意見はそうではありませんでした。

江戸城が明け渡されたのは1868年4月11日のことでしたが、4月の頭に開かれた最高意思決定機関の会議でも、徳川家を駿河へ移すか江戸へ戻すかで意見が二つに割れています。そして、最終的には駿河へ移封するという結論にまとまっていたのです。

つまりこの時点で、すでに将軍を江戸に戻すという選択肢はなかったということです。

谷中の徳川慶喜の墓

このため、江戸城も新政府が召し上げることで決定し、新政府の最高官庁である太政官が入ることになりました。

このあたりの決定内容が勝などの旧幕臣の耳に入らなかったのも当然のことで、政府は旧幕臣の反発を避けるためにこれらの決定事項は秘密にしていました。あくまでも、手続きは水面下で進められていたのです。

よって、最初から、勝の提案が受け入れられる可能性はありませんでした。

ふたを開けてみれば…

4月21日には、東征大総督府トップの有栖川宮熾仁親王が江戸城入りします。

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