超インテリだった「紫式部の家系」を深掘り!彼女の文才はどこから来たのか?【前編】
藤原氏の系譜
大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部。今回はこの人の出自について詳しく見ていきましょう。
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その姓からも分かる通り、両親は二人とも藤原氏の一族です。藤原氏と言えば、いわゆる大化の改新を中大兄皇子(天智天皇)と共に成し遂げた中臣鎌足の子孫です。中臣鎌足は、没する直前に天皇から藤原姓を賜りました。
さて、鎌足の子にあたる不比等には、四人の息子がいました。彼らはそれぞれ藤原南家・北家・式家・京家の藤原四家に分かれたものの、最終的には北家が最も強大な力を持ち、他の三家を圧倒します。
この時、北家の長となったのが藤原冬嗣です。
そしてこの冬嗣には複数人の息子がおり、紫式部の母である藤原為信女は冬嗣の長男の家系にあたります。一方、父の為時は六男の家系でした。
六男・藤原良門の家系ところで、冬嗣の息子たちの中で最も出世したのは、次男の良房です。
彼は嵯峨天皇の皇女と結婚して摂政の地位を獲得するなどし、天皇に代わって政治を行うようになりました。
そして、その良房の子孫である基経・忠平・師輔・兼家たちは、それぞれ関白や摂政の地位を絵て政治を取り仕切るようになります。
彼らが最盛期を迎えた時代こそが、紫式部や藤原道長が生きた頃でした。
ちなみに、同じ藤原北家の系統に属するものの、紫式部の父の藤原為時の系統はいまいちパッとしません。
為時は、藤原冬嗣の六男である良門の系統ですが、良門に続く利基・兼輔・雅正は権勢には恵まれなかったのです。
公家の中でも、中央政界の高官は特に公卿(くぎょう)と呼ばれますが、この良門の系統の中で公卿になれたのは兼輔だけです。彼は中納言の地位を手に入れました。この人が藤原為時のおじいさん(紫式部のひいおじいさん)にあたります。
出世した理由は…しかし為時の父親(つまり紫式部の祖父)にあたる雅正の代からは受領(ずりょう)の地位に落ちていました。
受領とは、中央政界での出世が望めない中流貴族が、国司として地方の政務を司るようになったポジションのことです。
しかも興味深いことに、兼輔が公家になれたのは、政治家としての手腕を買われたからではありませんでした。実は彼は、歌人・文人としての才能が秀でていたのです。
例えば、今も語り継がれている「聖徳太子伝説」のベースとなった『聖徳太子伝暦』の編者は彼だと言われています。
また、上皇や天皇の命によって編纂された和歌集『勅撰集』でもなんと45首が選ばれており、後年には三十六歌仙の一人にまで数えられました。
【後編】では、さらに詳しくこの兼輔・雅正・為時・そして紫式部に連なる、いわば「インテリの系譜」を紐解いていきましょう。
参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)
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