超インテリだった「紫式部の家系」を深掘り!彼女の文才はどこから来たのか?【後編】
兼輔・雅正という人物
【前編】では、紫式部の家系についてざっと説明しました。
【後編】では、さらに藤原兼輔・雅正・為時・そして紫式部に連なる「インテリの系譜」について詳しく見ていきましょう。
紫式部のひいおじいさんにあたる藤原兼輔は、賀茂川のほとりに屋敷を構えていたため「堤中納言」とも呼ばれていました。
彼は、かの紀貫之や凡河内躬恒などの一流の歌人たちのパトロンとしても名をはせていたといいます。
また、醍醐天皇のもとで和歌の振興につとめ、この時にはいとこにあたる藤原定方とも協力しました。
そして兼輔の長男である雅正も、歌人として有名になります。彼は父が亡き後も、紀貫之との親交を保ちました。また、女流歌人・伊勢などと和歌のやり取りができるほどの才能ある風流人だったのです。
ちなみに、ご存じ『後撰和歌集』では、雅正の歌が七首選ばれています。
【前編】でも解説しましたが、この雅正が紫式部のおじいさんにあたります。つまり雅正の息子が、紫式部の父親の藤原為時なのです。
為時・為頼はインテリ兄弟さて、為時は超インテリでした。何せ、官僚の育成機関である「大学寮」に入学すると、定員わずか二十名という狭き門である「文章生」となったのです。
ちなみに、彼はかの菅原道真の孫である文時に師事していました。
為時は和歌の腕前も一流で、勅撰集に四首が選ばれています。このあたり、父親である雅正の血を受け継いだと言えるでしょう。しかもそれだけではなく漢詩の名人としても有名で、平安中期に編纂された漢詩集『本朝麗藻』には十三種が選ばれています。
やはり彼のインテリぶりは家柄によるところが多かったのか、為時の兄(紫式部の伯父)である藤原為頼も、勅撰集に十一首が収録されています。
また彼は、個人の和歌をまとめた和歌集である「家集」として、『為頼集』も遺しました。
物心つく前に母を亡くした紫式部為時は968年に播磨国(兵庫県南西部)の役所の三等官である役職に任ぜられました。彼が藤原為信女と結婚したのはこの時期で、その後の数年間で男子一人と女子二人をもうけています。
この女子二人のうち次女が紫式部です。
しかし彼女がまだ幼いころに、母の藤原為信女は亡くなってしまいました。紫式部が後年記した『紫式部日記』には母親の思い出が全く登場しません。このことから、母親は式部が物心つく2、3歳頃に亡くなったのではないかと考えられています。
このように見ていくと、紫式部は受領の階級ではあったものの、歴史に名を遺すほどの優れた文化人を輩出した家系の出身だったことが分かります。
また為時は教育熱心だったことでも知られており、そんな彼のもとで育てられた紫式部が文人としての才能を発揮するのは当然の流れだったと言えるでしょう。
参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

