用便は女官を呼んでから!?平安時代のやんごとなき姫君や平安貴族たちのトイレ事情 (3/3ページ)
このことから寝殿造における「樋殿」は「排泄する場所」と推測できます。
しかし貴族の財力などにより、必ずしも邸宅に樋殿があったわけではないようです。
『雅亮装束抄』16
尊者のやすみ所とて、外記・史の座のそばなどびんぎの所一間に、御簾をかけまはして、高麗の畳一帖を敷きて、大臣の尊者のをりはおほ壷を置き、大納言には反に穴をゑるなり、(以下略)(『雅亮装束抄』、和装本)
「やすみ所(休所)」に畳を敷いて御簾で囲った空間に、大臣が客である場合には「大壷」を置き、納言や参議が客の場合には「板に穴を開けたもの」を使用する、と書いてあります。
この屋敷ではもともと用を足す「板の穴」が「便所」として作られており、その穴の下には壷やそれに代わる容器が置かれていたということですね。
中身を捨てるだけではなく、女性もその場所を利用できたのでしょうか?
『源氏物語』(空蝉) によると、老いた女房が下痢をしていたために夜間に「お腹が、お腹が…」と言いながら渡殿を通り過ぎて行った、という箇所があります。
ですので、男性専用であったというわけではないようです。小便はわかりませんが、大便の排泄に関しては、寝殿ではなく、外の庭か離れで行ったものと考えていいのかもしれません。とはいえ着物に匂いは付着するでしょう。そりゃお香を焚き染めるわけです。
庶民はどうしてた?庶民たちは樋箱などは使っておらず、掘っ立て小屋で地面に穴を掘っただけの汲み取り式や、道端で用を足すことも。高下駄の登場は、便を踏まない配慮から生まれたという説もあるので、これまたフランスでは窓から直接、壺の中身のし尿をぶちまけていたので紳士の外套が発達したという下の文化と共通していたり。
厠の登場垂れ流しに近いのですが、いわば水洗トイレのようなものもありました。貴族の屋敷の敷地内に小川などから水を引き込んだ東屋のようなものを作り、中ではその小川の両端に足を乗せる2枚の板を置きまたがって使用したり、穴をあけた板を渡して使用したそうです。「川屋」とよばれていたのが転じて「厠(かわや)」になったといいます。
しかしこれは貴族の姫君たちは利用しなかった様子。まず人前に顔を出すのがはばかられる時代。いくら屋敷内とはいえ下衆(身分の低い使用人)にみられる危険性もあるわけですし、室内では着物を引きずって歩いていたわけですから利用しにくかったと思います。
どうでしたか?最低でも一日3回程度は確実に行う行為。当時の姫君たちは相当、気を使ったことでしょう。
参考:「日本古代の排泄観念と樋洗童に関する一考察」寺田綾、『トイレ:排泄の空間から見る日本の文化と歴史』屎尿・下水研究会
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