あまりにも壮絶すぎる…13歳の実娘が切腹の介錯をした戦国武将・黒木家永の波乱に満ちた生涯

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あまりにも壮絶すぎる…13歳の実娘が切腹の介錯をした戦国武将・黒木家永の波乱に満ちた生涯

武士は切腹をする際、苦痛を軽減させるために介錯を行っていました。

イメージとしては男性が行うものと思われがちですが、中には実の娘に介錯をお願いした人物がいました。その人物は黒木家永、九州地方に領地を持っていた戦国武将です。

イメージ

今回は黒木家永に訪れた悲劇と実父を介錯した娘のその後についてご紹介します。

筑後十五城の一角だった黒木氏

大友宗麟/Wikipediaより

黒木氏は平安時代より続く一族で、筑後国(現在の福岡県南部)の黒木郷に居ついた国人領主でありました。

家永の祖父・黒木親実以前は、肥後国に領地を有した菊池氏に仕えていました。そして、筑後守護が築地氏から大友氏に代わった後、親実は大友氏に仕えます。

他にも大友氏に仕えた筑後国の国人たちがおり、力を持っていた黒木氏含めた15家を「筑後十五城」と呼んでいました。その中でも黒木氏は筆頭の蒲池氏に次ぐ実力を持っていました

黒木氏の当主が家永に就任すると態度を一変。大友氏に反旗を翻し、戦う構えを見せ始めます。

しかし、大友氏の家督を継いでいた大友宗麟が永禄7年(1564)に家永のいる猫尾城に向け、1万の軍を進めました。

家永は1000人にも満たない兵数でありながら、大軍だった大友軍と果敢に戦いました。それでも数には勝てず、敗北してしまったことで再び大友氏に仕えます

大友から龍造寺へと鞍替え

龍造寺隆信/Wikipediaより

宗麟に再仕官した家永は元亀元年(1570)の今山の戦い、天正6年(1578)の耳川の戦いに従軍しますが、いずれも敗北。特に耳川の戦いでの敗戦は大友氏の衰退を招いてしまいます。

これをきっかけに龍造寺隆信が筑後に侵攻し、家永は筑後十五城だった蒲池鎮漣(かまち-しげなみ)や田尻鑑種(たじり-あきたね)、西牟田鎮豊(にしむた-しげとよ)らと共に隆信に仕えました

しかし、天正9年(1581)に蒲池鎮漣が謀殺され、一族が滅ぼされる事件が起こります。

その中に家永の弟・蒲池益種もおり、親戚関係だった蒲池氏と弟を殺害された家永は大激怒。隆信に反旗を翻しました。

家永は猫尾城で籠城しますが、龍造寺政家・鍋島直茂に包囲され、肥前の国人である草野家清の仲裁で和睦しました。その際に嫡男の黒木延実を人質に差し出しています。

居城を大友の雷神と風神に包囲される

立花道雪と高橋紹運/Wikipediaより

家永は再度隆信に仕えますが、天正12年(1584)の沖田畷の戦いで隆信が討ち死にしてしまいます。隆信の突然の死に家中が動揺する中で、家永は離反することなく臣従を誓う起請文を送っています。

また、隆信の死を好機と見た宗麟は筑後を取り戻すために侵攻を開始。当然猫尾城も標的となり、1万2千の兵に包囲されました

家永は2000に満たない兵数でありながらも龍造寺氏からの援軍もあり、防戦し続けていました

この状況に焦った宗麟は立花道雪と高橋紹運を援軍に迎えます。2人は支城の高牟礼(たかむれ)城を守っていた家永の家臣・椿原式部に調略を仕掛けました。

椿原式部の裏切りを受け、家中は混乱すると共に2ヶ月間戦い続けていたこともあり、兵糧も尽き果てます。

もはやこれまでと見た家永は悲憤の思いを抱きながら潔く切腹を決めました

介錯した実娘は生け捕りに

鍋島直茂/Wikipediaより

家永の切腹での介錯は、13歳の実娘が行ったと言われています。

家永の娘は父の介錯を終えると、持っていた刀で敵兵を1人斬り捨て、刀と家永の首を2階より大友軍へ投げました

その後は生け捕りにされ、高良大社の麟圭の元へ送られた後、鍋島直茂の家臣・大木兵部輔の妻となりました

なお、家永の死に関しては切腹する前に降伏し、その後謀反の疑いありとして謀殺された説があります。

参考:楠戸義昭『戦国武将の本当にあった怖い話 』‎2013年、三笠書房

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