報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【前編】

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報復・見せしめに遺体を野ざらし!?幕末期の会津戦争における残虐行為の真相を検証する【前編】

酸鼻を極めた会津戦争

幕末期の会津戦争といえば、新政府軍と、幕府側の筆頭だった会津藩が1868年4月に衝突した戦いとして有名です。これにより、現在は観光名所となっている鶴ヶ城を、会津藩は失うことになりました。

春の鶴ヶ城

ところでこの会津戦争、実は現在でも、当時の激戦区となった会津若松あたりでは根強い遺恨があります。

さすがに、昭和初期までのように「新政府側か幕府側か」という大きな括りで出身地ごとに対立するようなことはほとんどない現代ですが、それでも会津若松あたりでは、当時の薩長軍が行った大規模な残虐行為に対する恨みがあるのです。

それも無理のない話で、佐幕派の中心的地位だった会津藩は、新政府軍からの攻撃によって街も人も壊滅的な被害を受けました。女性たちも乱暴され、9月22日に降伏した後は、被害を受けた女性たちが会津の寺に夜な夜な赤子を埋めに来たという話もあります。

それらの残虐行為のひとつとして有名なのが、見せしめとして行われた会津兵の「死体放置」です。

これは、9月に会津戦争が終わってからも、新政府軍は約三千人の会津兵の遺体の埋葬を半年以上も許さなかったというものです。

新政府軍にとって会津兵たちは逆賊だったので、罪人として見せしめにしたとされています。

新政府がこのような措置を取った理由は、分からなくもありません。長州藩は禁門の変で会津藩からやっつけられているので、その報復と考えれば説明がつくでしょう。

しかし、この通説はそう単純ではなかったらしいことが、最近では分かってきています。

新史料発見と残る謎

この通説の再考を促す歴史史料が見つかったのは、2016年12月のことでした。

飯盛山の白虎隊隊士像

会津市の博物館に寄贈された史料の中に「戦死屍取始末金銭入用帳」というものがあったのです。これは作者不詳ではあるものの、当時の会津兵の遺体の埋葬について詳しく記録されていました。

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これによると、会津兵の遺体の収容は、実は10月3日には始まっていたようです。つまり終戦から十日ほどで遺体収容・埋葬は行われていました。しかもそれは新政府による指示だったのです。

例えば、10月17日には会津藩氏4名が567名の遺体を64か所の墓地や寺に運んだとありますが、これも新政府の指示でした。

さらに新政府は、この埋葬にお金も出しています。現在の約450万円にあたる74両の費用を支出しており、埋葬作業に動員された384名に対して、一人一日につき作業代として2朱(現在の約7500円)が支払われました。

つまり、通説とは反対に、新政府は会津兵の遺体を放置させるどころか、埋葬のために積極的に資金まで投入していたのです。

なぜ、明治新政府はこのように恨み骨髄のはずの会津兵たちの遺体の埋葬をていねいに進めていったのでしょうか。

また、「遺体は放置された」という説が最近まで定説とされていたのはどうしてなのでしょう。

【後編】では、この辺りの謎について説明します。

参考資料:
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

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