正直、伊周たちより地味だけど…藤原道隆の次男・藤原頼親とはどんな人物だったのか?【光る君へ】 (2/3ページ)

Japaaan

18歳となった永祚元年(989年)に五位として見え、正暦2年(991年)には左近衛少将となりました。

正暦4年(993年)には正五位下へ昇進し、長徳元年(995年)に左近衛中将と任じられます。
伊周たちに比べると明らかに見劣りしているものの、着々と出世していると言えるでしょう。

しかし長徳2年(996年)に伊周たちが謀叛(長徳の変)によって左遷されてしまうと、殿上簡(てんじょうかん。殿上人の名簿)より削除。

つまり除名=代理への出入り禁止を食らってしまったのです。

永らく不遇の歳月を過ごし、寛弘2年(1005年)に内蔵頭(くらのかみ)を兼任。寛弘5年(1008年)には備前守(岡山県東部の国司長官)となりました。

時期は不明ながら正四位下へ昇ったものの、寛弘7年(1010年)11月9日に39歳で卒去します。

永年にわたり左近衛中将を務めたものの、ついに公卿にはなれなかったのでした。

頼親の家族たち

藤原頼親の子・頼心(イメージ)

頼親は源満仲(みつなか)の娘を妻に迎えており、男子の頼心(らいしん)を授かります。

また母親不明の頼昭(らいしょう)も授かったものの、いずれも出家しました。

恐らく中関白家の子弟として出世の見込みもなく、叔父の藤原道長から睨まれて不要な権力争いに巻き込まれないための配慮ではないでしょうか。

たとえこの子たちに野心はなかったとしても、道長が放っておかない可能性は十分にあります。

出世できないなら、せめて心安らかに暮らして欲しい。

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