権力の絶頂を極めた藤原道長がその死を悲しんだ末娘・藤原嬉子とはどんな女性だったのか【光る君へ】 (2/3ページ)
世代を繰り下げることによって、頼通の代になっても「自分の娘を入内させた」外戚としての地位を確保させておきたかったものと考えられます。
敦良親王は後に皇位を継承し、後朱雀天皇(ごすざくてんのう。第69代)と呼ばれました。
そして入内から4年後の万寿2年(1025年)8月3日、嬉子は待望の皇子を出産します。
皇子は親仁親王(ちかひとしんのう)と名づけられ、やがて皇位を継承して後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう。第70代)と呼ばれるのでした。
しかし出産からわずか2日後に病のため薨去。死因は赤斑瘡(あかもがさ。現代の麻疹)ということです。
待望の皇子が生まれ、人生これからというところだったのに、19歳という若さで世を去ってしまったのでした。
藤原嬉子の魂を呼び戻す?
嬉子が亡くなった報せを聞いた道長は、大変動揺したと言います。
「直ちに陰陽師を呼べ!魂呼(たまよばい)をさせるのじゃ!」
魂呼とはその名の通り、魂を呼ぶこと。冥界へ旅立とうとしている魂を呼び戻して、生命をつなぎ止めるための儀式です。
「お言葉ながら、魂呼は陰陽師の職務違反では……」
「うるさい、今すぐやれ!」
「……ははあ」
道長の厳命とあらば仕方ありません。呼び出された陰陽師の中原恒盛(なかはらの つねもり)らは、さっそく魂呼の儀式にとりかかりました。
中国の古典『礼経』によると、屋敷の屋根に上り、その東側で衣を振りながら三度名前を呼ぶのだそうです(檀弓編三)。