伊周たちのその後、『枕草子』書名の由来、ポスト定子は誰?大河ドラマ「光る君へ」5月26日放送振り返り

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伊周たちのその後、『枕草子』書名の由来、ポスト定子は誰?大河ドラマ「光る君へ」5月26日放送振り返り

どこにも行かぬと逃亡し、出家したと偽って駄々をこね、挙げ句の果てに母親と引き離されてわめき……いやはや。概ね史実とは言え、実に見苦しい展開でしたね。

藤原伊周(三浦翔平)の完全失脚により、藤原道長(柄本佑)に政敵はいなくなりました。

すべては藤原詮子(吉田羊)と源倫子の計画通り……本作においては、どこまでも野心のない人物として描かれ続けます。

出家して失意に沈む中宮・藤原定子(高畑充希)を慰めようと、かつて賜った紙に筆を走らせる清少納言(ファーストサマーウイカ)。輝かしい日々を心の随(まま)に描いた筆は、後世『枕草子』と呼ばれたのでした。

一方まひろ(紫式部。吉高由里子)は越前国司となった父・藤原為時(岸谷五朗)と共に越前へ。大騒ぎしていた宋人たちを一喝します。

NHK大河ドラマ「光る君へ」第21回放送は「旅立ち」。皆さんも楽しめましたか?今週もさっそく気になるトピックを振り返っていきましょう!

伊周たちのその後

……員外帥出家帰本家云々、……(中略)……車内有女法師、帥母氏云々、可副遣歟者、仰云、不可許遣……

※藤原実資『小右記』長徳2年(996年)5月4日条

【意訳】権帥(伊周)が出家した姿で帰ってきたという。(中略)車の中に出家した女がおり、伊周の母であった。同行したいと言っているが、許されなかった。

母と引き離され、意気消沈する伊周(イメージ)

母・高階貴子(板谷由夏)と引き離され、涙ながらに大宰府へと護送された藤原伊周。既に出雲へ向かった藤原隆家(竜星涼)ともども、その後どうなるのでしょうか。

伊周と隆家はそれぞれ病いと称してごね続け、伊周は但馬国(兵庫県北部)、隆家は播磨国(兵庫県南部)に留められました。

やがて10月になると、伊周は貴子が重病に倒れたと知って、いても立ってもいられずに京都へ舞い戻ります。

又しても定子に匿ってもらいましたが、密告されて捕らわれ、今度こそ大宰府へ連行されました。10月末には貴子が世を去り、伊周は12月に大宰府へ到着します。

そんな12月16日、定子は長女の脩子内親王(しゅうし/ながこ)を出産しました。

年が明けて長徳3年(997年)、伊周たちは罪を赦され、一条天皇(塩野瑛久)は定子母娘を再び入内させます。

これは傷心の一条天皇を慮って道長と詮子が提言したとも言われますが、一度出家した者を入内させるという不謹慎かつ異例の措置に、声なき批判が集まったのは言うまでもありません。

ポスト定子を争う藤原元子と藤原義子

一条天皇の寵愛を狙う(イメージ)

独走状態であった定子が出家したことにより、中宮争いが過熱しました。

その有力候補として挙がったのが、藤原顕光(宮川一朗太)の娘である藤原元子(げんし/もとこ)と、藤原公季(米村拓彰)の娘である藤原義子(ぎし/よしこ)。どちらも血筋としては申し分ありません。

藤原元子

生没年不詳

母親は盛子内親王(村上天皇皇女)で、長徳2 年(996年)11月14日に入内。同12月2日に女御となり、承香殿女御(じょうきょうでんのにょうご)と呼ばれました。

長徳3年(997年)10月に懐妊したため、年末に里へ下りますが、その様子を義子の女房たちが御簾の陰から見ていたと言います。

その様子を見た元子の女童が「おたくが孕ませられるのは、御簾だけですか?」と嘲ったとか。

当時はこの手の露骨なハラスメントが横行していたことがよく分かります。

しかし元子も結局は出産に至りませんでした。記録には見当たらないものの、義子陣営からの逆襲があったろうことは想像に難くありませんね。

一条天皇との崩御後は源頼定との関係で父から勘当されてしまうのですが、それはまた別の話し。

藤原義子

天延2年(974年)生~天喜元年(1053年)没

母親は有明親王女。元子よりも一足早い長徳2年(996年)7月20日に入内、8月9日に女御となりました。

弘徽殿に住んだことから弘徽殿女御(こきでんのにょうご)と呼ばれます。

順調に昇進して正二位となるも、一条天皇との間に皇子は生まれませんでした。

万寿3年(1027年)12月18日に出家、天喜元年(1053年)閏7月に80歳という長寿を全うします。

どちらもポスト定子を勝ち取れなかったものの、熾烈な寵愛争いが劇中で描かれるのか、楽しみですね!

『枕草子』書名の由来は?

枕草子(イメージ)

失意の定子を慰めるため、四季おりおりの「をかし」を書きつづった『枕草子』。

かの有名な「春はあけぼの……」のフレーズは、誰もが懐かしむのではないでしょうか。

『枕草子』の書名について、その由来は諸説あり、議論はいまだ決着を見ないようです。

草子(そうし)は草紙とも書き、要は冊子のことですが、枕についてははっきりしません。
例えばどんな説があるのでしょうか。

「枕元において思いついたことなどを書き留めた備忘録」説 「歌枕や名辞を列ねた草子」説 「枕のように、人様には見せられない秘めたる思いを記した」説 「敷物=布団には枕を」説(本作において採用)など。

全体を通して明るくサバサバした清少納言の人柄が偲ばれますが、その陰には定子に対する思慕が込められていました。

悲しいことも多いけれど、それでも元気に生きていく。

定子の元を去った後、清少納言がどのような末路をたどったかは明らかにされていません。

それでもかつて共に生きた日々の輝かしさは、千年の歳月を経てなお瑞々しい感性と共に伝えられています。

第22回放送「越前の出会い」

大海原とも見まごうばかりの琵琶湖を渡り、一路越前までたどりついたまひろたち。

群がる宋人らを眺める周明(松下洸平)。彼との出会いが、まひろに大きな影響を与えるようです。

また中央では政敵のいなくなった道長がどのような政を行っていくのか……次週も目が離せませんね!

トップ画像:大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより

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