長寿を全うした『光る君へ』の主要キャラたち!「源氏物語」完成後の紫式部の消息は?何歳まで生きた?
『源氏物語』の清書・製本
大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、いよいよ彼女の執筆した『源氏物語』が、日の目を見る日がやってきます。
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道長の娘であり、敦成親王の母親でもある中宮・彰子が内裏に戻る還啓が近づく中、彰子が直々に『源氏物語』の冊子作りを呼びかけたのです。
おそらく彰子は、『源氏物語』を、その愛読者である一条天皇への手土産にするつもりだったのでしょう。
これは大変な重労働でした。なにせ現代のように印刷機械も専門の印刷所も存在しない中、紙選びや清書・製本作業を全て手作業で行わなければならないからです。
ぼやく紫式部紫式部の当時の様子が記されている『紫式部日記』には、この頃の式部の多忙な様子が綴られています。
明けたてば、まづ向かひさぶらひて、色々の紙選り整へて、物語の本とも添へつつ、所々にふみ書き配る。かつは、綴じ集めしたたむるを役にて明かし暮らす。
(夜が明けると中宮様の御前に上がり、いろいろな紙を選び揃えて、物語の原稿を添えて、あちこちに書写 〈清書〉を依頼する文を書いて配る。その一方で、清書された分を綴じ集めて整えることを役目に、一日中作業を続けた)
その様子を見た藤原道長は「子持ちの中宮が寒い中、なぜこんな仕事をされるのか」とぶつぶつ言いながらも、上質の紙や筆、墨や現などを提供したと書かれています。なんだか微笑ましいですね。
また、その一方で道長は、式部が実家から取り寄せてしまっておいた『源氏物語』の草稿を、式部の留守中に無断で持ち出し、中宮の妹である妍子に与えてしまいました。それを知った式部は、
よろしう書きかへたりしはみなひき失ひて、心もとなき名をぞとりはべりけむかし
(まずまずに書き直したものは分散し、草稿はこうして伝わってしまったのだから、残念な評価を受けるのでしょう)
とぼやいています。
この時の冊子作りは規模が大きく、一条天皇への手土産であったことなどから、『源氏物語』の主人公である光源氏の生涯、幻巻までを含む四十一帖一揃いだったかと思われます。
その後の式部の消息は?さて、ところでこうして『源氏物語』が日の目を見て、その後の紫式部はどのように生きたのでしょうか。
彰子の女房として仕えた紫式部の動静を伝える『紫式部日記』は、敦成親王誕生を主とする「前半記録体部分」、と、清少納言・和泉式部などの批評や自身の生い立ち、心境などを綴った「消息体部分」、そして年月日が記されていない「年次不明部分」、彰子の第二子・敦良親王誕生を主とする「後半記録体部分」に分類されます。
この「後半記録体部分」はごく短いもので、寛弘7 (1010)年元日から1月15日までの記録です。残念ながら『紫式部日記』を参考に、この後の紫式部の確実な消息を突き詰めるのは難しそうです。
ただ、ほぼ確実と思われるのは、少なくとも長和2(1013)年5月26日まで、彼女は彰子に仕えていたということです。
この日、藤原実資という公卿が養子の資平を彰子のもとに遣わしたところ、「越後守為時の女」が取り次いだと記録されているのです。
この記述がある実資の日記『小右記』には、名前は出ていないものの紫式部と思われる女房が寛仁3(1019)年正月5日にも取次役として登場していることを確認しています。
この見方が正しければ、式部は少なくとも60歳くらいまでは生きていたことになります。
またある研究者は、紫式部が寛仁(1017〜1021)や治安 (1021~1024)、万寿(1024~1028)、長元(1028~1037)年間まで存命し、宮廷に出仕していた可能性も十分あると述べています。
仮に、各元号の最終年に亡くなった場合の享年は、寛仁で52、治安で556万寿で3、長元で68くらいと考えられます。
ちなみに、平安貴族の平均寿命は男性が33歳、女性が27歳くらいだったという推計がありますが、藤原道長は60歳、彰子は36歳という長寿を全うしています。
参考資料:
歴史探求楽会・編『源氏物語と紫式部 ドラマが10倍楽しくなる本』(プレジデント社・2023年)
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