邪馬台国の場所「九州説vs畿内説」はもう古い?邪馬台国と倭の情勢を国際関係から読み解く【後編】
倭と呉の関係
【前編】では、『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国について、昔ながらの「九州と畿内のどちらにあったのか」という議論はあまり重きを置かれなくなっていることを解説しました。
邪馬台国の場所「九州説vs畿内説」はもう古い?邪馬台国と倭の情勢を国際関係から読み解く【前編】では、現代の歴史学では、どのような観点からの研究が進められているのでしょうか。
【前編】で少し述べましたが、当時の日本(倭)は全体として魏よりも呉の方との交流が深かったのではないか、と考えられています。
最近では、こうした観点をベースにして考えられるようになりました。
例えば山梨県の鳥居原狐塚古墳や、兵庫県の安倉高塚古墳などから出土した鏡には赤鳥という年号(元号)が刻まれているものがあります。
これは呉王朝で使用されていた年号で、こうした銅鏡の出土は決して多くはないものの、発掘範囲は山梨・兵庫・京都と広域に及んでいます。
また、これはそもそもの話なのですが、日本に稲作が伝来した経路のひとつは、呉があった江南地方だったとされています。
これらのデータを踏まえて総合的に考えてみると、もともと、倭では魏よりも呉との通行・交流が多くあったと考える方が自然だと言えるでしょう。
俯瞰的な視点で読み解くと少しだけ中国・朝鮮史の話になりますが、三世紀前半という時代は遼東半島や朝鮮半島北部で公孫氏が勢力を持っていた時代でした。
遼東半島と江南は、昔から海路での通交があり、公孫氏が江南の呉と手を結んで勢力を伸ばすことは魏にとって脅威でした。
そこで238年、魏は公孫氏を討伐し、遼東半島・朝鮮半島北部を支配したのです。
卑弥呼が魏に使いを送った239年の三国時代は、まさにこういう状況でした。これらのことを踏まえると、邪馬台国と魏の関係も少し立体的に解釈できそうです。
鳥居原狐塚古墳の対置式神獣鏡。「赤烏元年」の銘がみえる(Wikipediaより)
渡邉義浩の『魏志倭人伝の謎を解く三国志から見る邪馬台国』では、倭の中で一定の勢力をもつことになった邪馬台国が、勢力を拡大してきた魏と結ぶことで権威を高めようとした可能性を示唆しています。
つまり、当時の倭(日本)の諸国は呉との交流が深かったものの、邪馬台国はそれらの諸国に対抗して力を持とうと、魏との交流を深めようとしたのかも知れません。
邪馬台国は九州にあったのか近畿にあったのか、という議論にとらわれず、当時の国際関係の中での日本の状況を俯瞰的に捉える視点が大切だと言えるでしょう。
参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
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