俗説と誤解に満ちた室町時代の歴史イメージ!金閣は国宝ではない?銀閣に銀箔は貼られていない?

教科書の変化
学校での日本史の学習において、なぜか室町時代というのは軽んじられる傾向があります。
小学校の教科書での説明も実にシンプルで、建武の新政や南北朝の争乱についてスキップしているものもあるほどです。
室町時代の人物で大きく取り上げられる人物といえば、かろうじて足利義満と足利義政の二人くらいなもので、見開きページで左側に金閣の写真と義満の話、右側に銀閣の写真と義政の話、それに応仁の乱や一揆の話が添えられるのが関の山です。

こうした傾向は中学校の教科書もほぼ同様で、当時の文化について「室町文化」と一括りにされることが多く、高校の教科書のように北山文化・東山文化という分類もされないのが一般的です。
とはいえ、こうした傾向について変化がないわけではありません。室町時代を代表する二つの建築物といえば金閣と銀閣ですが、教科書や試験問題での扱いは少し変わってきました。
従来の教科書では、現在の金閣の写真を示して「これが室町時代の北山文化を代表する建物である」と説明してみたり、試験では「これが何時代の建築に該当するか答えよ」などと出題されたりしたものです。
しかし最近は、こうした記述はなくなりつつあります。なぜでしょうか?
金閣も銀閣もイメージと違うその理由は簡単で、金閣は1950(昭和25)年、放火によって焼失しているからです。現在の金閣は建て替えられたものなので、決して本当の意味で室町時代の建築物とは言えません。
厳密には、いわば室町時代風昭和建築だと言えるでしょう。よって、あれほど有名な金閣も国宝ではありません。おそらく「金閣は国宝に指定されているか?」と尋ねたら、多くの人が「当然国宝だろう」と思うかも知れませんが、実はそうではないのです。
また、金閣に関する誤解は他にもあります。金閣は建物全体が金箔に覆われているように思われがちですが、三層のうち一層には金箔が貼られていません。これは写真で簡単に確認できます。

さて、室町時代の文化(東山文化)を代表する建築物として、金閣と双璧をなすのが銀閣です。これにもさまざまな誤解がまとわりついています。
銀閣寺と呼称されている寺院は、正式名称を慈照寺といい、禅宗(臨済宗相国寺派)の寺院です。その寺院の建物の一つである観音殿が、銀閣なのです。

そもそも、もともとの名称は銀閣ではありませんし、寺ですらありませんでした。足利義政の東山殿(山荘)だったのです。
北山の金閣に相対するものとして江戸時代から銀閣と呼ばれるようになっただけで、よって銀箔も貼られていません。
銀箔の有無については、金閣に金箔が貼られているのでどうしても勘違いされがちですが、当該建物に銀箔が貼られた痕跡はありません。むしろ最初は漆塗りだったのではないかと考えられています。
誤解がいっぱいさらに銀箔の有無については、よく「銀箔を貼ろうとしたが、足利義政の妻日野富子が反対し、銀が没収された」などと説明されることがあります。しかしこれは俗説で、証拠はありません。
銀閣に関する誤解は他にもあります。有名なのが「足利義政は東山の山荘(銀閣)にこもって政治を顧みず、そのため応仁の乱が起こった」というものです。
実際には、東山殿が造営されたのは応仁の乱の後ですし、臨済宗の寺院となったのは義政の没後でした。

さらに、これと関連するもうひとつの大きな誤解についても説明しておきます。
応仁の乱後の京都は荒廃し、幕府や将軍の権威は失墜したとよく説明されますが、これはかなり雑な説明だと言えるでしょう。
実際には京都全体が焼亡したわけではなく、火に見舞われたのは二条より北で、商業地域は焼失を免れています。
また、義政は東山殿の造営にあたって段銭(臨時の税)と夫役(労役)を住民に課しています。このことからも、のちの銀閣となる東山殿の造営時も室町幕府の権能は失墜していなかったことが分かります。
またこの要請に応えられる住民も存在しており、決して京都市内全域の焼亡には至っていなかったのです。
こうした事柄を見ていくと、室町時代に関する一般的な情報は誤解と俗説が多いことが理解できるでしょう。
小・中学校程度の教科書レベルの知識にとどまっている方は、いま改めて室町時代のことを調べ直してみると、新しい発見がたくさんあるかも知れません。
参考資料:
浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan