道長の圧力に苦しむ日々…三条天皇の皇后・藤原娍子(演:朝倉あき)とはどんな女性だったのか?【光る君へ】 (2/4ページ)
藤原娍子は天禄3年(972年)に藤原済時(なりとき)と源延光女(のぶみつのむすめ)の間に誕生しました。
父から箏(琴)の手ほどきを受け、名手として知られたそうです。
年頃になると、はじめ花山天皇から入内の要請がありましたが、済時はこれを辞退。大事な娘に何をされるか分からない不安があったのでしょうか。
そんな事もあって、21歳となった正暦2年12月1日(992年1月8日)に居貞親王の元へ入侍し、春宮妃となります。
美貌で親王からの寵愛も深く、敦明親王(小一条院)はじめ四男二女に恵まれました。
藤原娍子の子供たち 敦明親王(あつあきら) 敦儀親王(あつよし) 敦平親王(あつひら) 当子内親王(とうし/まさこ) 禔子内親王(しし/ただこ) 師明親王(もろあきら)人生これからと言う矢先、長徳元年(995年)に大流行した疫病で父の済時が亡くなってしまうのです。
当時は父親が生きて(かつ現役で)いることが出世における死活問題。後ろ楯を失った娍子の前途に暗雲が漂い始めました。
居貞親王の寵愛だけが恃みでしたが、寛弘8年(1011年)に居貞親王が皇位を継承すると娍子は女御となります。
その住まいから宣耀殿女御(せんようでんのにょうご)と呼ばれた娍子は、寛弘9年(1012年)に従四位下、ついで皇后となりました。
この辺りが人生の絶頂だったと言えるでしょう。
