紫式部の夫・藤原宣孝はなぜ亡くなったのか?死因はまさかの!藤原行成『権記』によると… 【光る君へ】 (2/3ページ)
又申(また、もうす)とあるので、以前にも痔の発症(ここでは発動)を申告したことがあるのでしょう。それで再発と意訳しました。
語尾の之由(~のよし)とは「だそうだ」のようなニュアンスであり、行成が直接申告を受けた訳ではなく、部下からそのように報告を受けたのでしょう。
当時の宣孝は長徳4年(998年)ごろに紫式部と結婚、翌長保元年(999年)から同2年(1000年)にかけて多忙な日々を送っていました。
宇佐神宮(うさじんぐう)の奉幣使として出張したり、平野臨時祭の勅使を務めたり、相撲節会(すまいのせちえ)に列席したり……。
長保元年(999年)ごろには紫式部との一人娘である藤原賢子(けんし/かたいこ。大弐三位)も生まれており、ますます励んだのかも知れません。
(ただし紫式部以外に妻が三人、確認できるかぎりで5~6人の子供がいました)
激務に追われた無理が祟ったのか、宣孝は痔を発症。何とかごまかしながら働いていたら、いよいよ深刻化してしまったようです。
痔の発症から約2ヶ月後、長保3年(1001年)4月25日に宣孝は世を去ってしまったのでした。
宣孝の死因が痔だったのか、あるいは他の病気だったのかについてはハッキリ記されていません。
しかし深刻な下血があったのは確かなようで、症状の似ている大腸がんなどの可能性も考えられます。
このころ紫式部は20代後半から30前半、娘の賢子はまだ2~3歳。一人娘を抱えながら、紫式部は悲しみに暮れたことでしょう。