天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当なのか?現代まで残る風説を紹介【後編】 (2/3ページ)
④豊臣秀頼
豊臣秀頼 Wikipedia
豊臣秀頼 Wikipedia
秀吉の実子とされる人物の中で、もっとも有名な存在が三男の「豊臣秀頼(ひでより)」だろう。母親は鶴松と同じく側室の「淀殿」。1593年に大阪城で生まれた。秀吉57歳時の子供である。人生50年といわれたこの時代にあって、他に類をみない高齢での実子誕生であった。
秀吉の死後、跡取りとして豊臣政権を任されるが、関ヶ原の戦いを経て台頭した「徳川家康」の策略によって一大名に転落。徳川家との対立を深め、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。秀頼自身も自害して果てた。享年23。
悲実子説の存在紹介してきた秀吉4人の実子達には、本当の子供ではない可能性が囁かれている。長浜城主時代の長男・石松丸に関しては、寺社に残る記録や建造物から存在は認められているが、実子と養子との間で専門家の意見は分かれている。
長女は、資料が現存していないため不明。2人の生母とされる人物も定まっていない。
鶴松と秀頼にも非実施説が存在する。2人の母親である淀殿(茶々)は、織田信長を裏切り自刃した浅井長政の娘であり、母親である「お市の方」の死因を作ったのは秀吉であった。秀吉と淀殿の間には因縁が存在したのである。