脚色と誤解の数々…実は石田三成と徳川家康は険悪な仲ではなかった!二人の関係の誤解を解く【後編】 (2/3ページ)
この史料は延宝8年(1680)に成立した『続武者物語』に掲載されているものです。
直江兼続は上杉景勝の腹心であり、上杉家の勢力を削ぐために家康は会津に兵を差し向けました。しかし三成が挙兵したと知ると軍を引き返し、関ヶ原にて三成軍と衝突しています。
こうした経緯と照らし合わせると、上杉と光成の共謀説はそれなりに辻褄が合うと言えるでしょう。
無理がある密約しかし現在、両者が事前に提携していた可能性は極めて低いと考えられています。
まず、『続武者物語』は武将にまつわる逸話を集めた書物で、そもそも脚色が著しいのです。同書に登場する三成の書状は原本が確認できておらず、偽文書である可能性が高いとみられています。
それに、原本が残る三成自信が書いた手紙を読むと、共謀説が間違っていることは明らかです。
三成は関ヶ原の戦いが起こる約一か月前に、真田昌幸に景勝の説得を依頼する手紙を出しており、昌幸を介して、出兵と三成との連携を依頼しているのです。