恐妻家と嫉妬妻? 徳川2代将軍・徳川秀忠と継室・江(崇源院)の関係性【後編】

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恐妻家と嫉妬妻? 徳川2代将軍・徳川秀忠と継室・江(崇源院)の関係性【後編】

徳川2代将軍「徳川秀忠(とくがわひでただ)」と継室「江(ごう)」には、恐妻家や嫉妬妻などの逸話が残っている。今回は【前編】に続き、将軍夫婦の関係性を考察する。

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恐妻家と嫉妬妻? 徳川2代将軍・徳川秀忠と継室・江(崇源院)の関係性【前編】

女性関係

表向きは継室である江との関係性を維持していた秀忠であったが、江以外の女性との間にできた子の存在も知られている

・長丸(ちょうまる)
実質的に秀忠の嫡男にあたる。母親はわかっていないが、身分の低い家女であったとされる。正確な生年月日などは不明だが、2歳前後で早世している。

・保科正之(ほしなまさゆき)
侍女であった静という妾との間にできた子供。当時の通例として、妾をつくる際には正室の許可や出自の整理など様々な準備が必要であった。しかし、静は公の準備が整う前に懐妊したことで側室として正式に認知されることはなかった

秀忠のご落胤「保科正之」(Wikipediaより)

生まれた幸松は存在を秘匿され、旧武田家臣の信濃国高遠藩主保科正光によって養育された。保科正之となって以降は3代将軍・家光に仕え、その有能ぶりから寵愛され1643年には陸奥国会津藩23万石の大名となった。

静は幸松と共に信濃に渡り、当地で没した。本人と秀忠の死後に側室扱いとなる

恐妻家と嫉妬妻の謂れ

秀忠・江夫婦に恐妻家と嫉妬妻の逸話が残る理由には以下の事実が根拠としてあげられる。

①秀忠が生前に静を正式な側室とすることはなく、息子の幸松(保科正之)を実子として迎え入れることもなかったこと

②「柳営婦女傳系」に江が嫉妬深いとの記載が残っていること

しかし、秀忠と江には実子が7人も存在することから、夫婦仲が悪かったとは考えづらく、上述の資料も信憑性に欠ける部分が多い。

秀忠が幸松の存在を秘匿したのは、当時の武家社会の秩序を守り無駄な諍いを起こさぬための措置であり、江に対する配慮と受け取ることもできる。

江に関しても、静との面識や幸松の存在の認識有無は曖昧であり(家光が幸松の存在を知ったのは江の死後)、嫉妬を裏付ける具体的な行動やそれを裏付ける根拠はない。

夫婦は現在、東京都港区の増上寺に合祀されている。

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