後鳥羽上皇は「討幕上等!」ではなく、実は鎌倉幕府との対立を避けていた?〜 融和政策の実態
後鳥羽上皇は「討幕上等」だった?
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、承久の乱を起こして鎌倉幕府に真っ向から対抗した人物として知られています。
政治への関心が強かった後鳥羽は、わずか19歳で息子に皇位を譲り、上皇として院政を開始。仲恭天皇までの3代にわたって朝廷を取り仕切りました。
そんな後鳥羽からすると、鎌倉幕府は朝廷による統治を妨げる邪魔者でしかありません。そこで幕府を打倒するために軍事力を強化し、討幕計画を練っていたというのが通説です。
ここでいう軍事力とは、院御所の西方に置かれた西面の武士のことです。彼は身辺警護を名目に有力御家人を囲ったのでした。
その後、3代将軍である源実朝が暗殺されて幕府が動揺している隙に、上皇は討幕を決行します。
しかし、幕府が御家人の大規模動員に成功したことで、朝廷は敗北。上皇は佐渡に流され、幕府が名実ともに朝廷を上回る権力を手に入れることになったといわれています。
このように、上皇が計画的に幕府打倒を目指していたというのが通説ですが、現在この通説は否定されています。
上皇がいつ討幕を決断したかはよくわかっていないものの、実朝の存命中には武力蜂起の意志はなく、むしろ朝廷と幕府の融和を図ろうとしていたと考えられるようになっているのです。
実朝との親睦上皇の融和政策が失敗したのは、実朝が暗殺されたことが影響しているとみられています。
実は後鳥羽と実朝は、直接会ったことはありませんでした。それでも両者は親密な関係を築いていました。
例えば「実朝」という名前は、将軍就任にあわせて後鳥羽が命名したものです。建仁3年(1203)9月、実朝が12歳のときのことでした。
さらにその2ヵ月後には、後鳥羽は従姉妹を鎌倉に送っています。目的は、両者の婚姻関係を結び、幕府と朝廷の関係を強化することでした。
また、上皇は実朝に歌集を送るなど、朝廷文化を通じて友好的な態度を見せています。実朝も歌を送るほどに上皇へ信頼を寄せるようになり、都の文化への憧れを強くしていったふしがあるのです。
実朝がまとめた和歌集である『金槐和歌集』には、京への憧憬や将軍としての鬱積などが詠まれており、後鳥羽から影響を受けたとおぼしき歌も収録されています。
後鳥羽からすれば、実朝との関係強化によって、幕府を間接的に支配する腹積もりもあったのでしょう。子がいなかった実朝は、上皇の息子を次期将軍にするつもりでした。
そのことについては、鎌倉幕府の有力御家人たちも、天皇の子であれば権威としては申し分ないとして、当初は歓迎していたのです。
後鳥羽上皇が幕政に関与した可能性は十分にあったと言えるでしょう。
幕府との確執しかし、実朝が暗殺されたことで融和策は無に帰しました。上皇は、自分の息子までもが殺されるのではないかと不信感を抱くようになり、鎌倉に将軍に出すことを忌避するようになります。
結局、将軍は幕府と関係の深い九条家から出すことになりました。
こうした融和策の失敗が引き金となって、後鳥羽は武力攻撃を決断したと考えられています。
なお、戦いに勝利した幕府は支配領域を西国にまで伸ばしましたが、北条氏は当初から朝廷を敵に回すつもりはなく、むしろ上皇との戦いを避けようとしていました。
御家人を団結させた北条政子も、演説で上皇への追及は徹底して避けています。また上皇が敵軍にいた場合の対応を聞かれた2代執権・北条義時も「武器を捨てて降伏せよ」と助言しているのです。
権力が衰退しているといえども、天皇家に直接弓引くことは避けたかったのでしょう。
このように、後鳥羽上皇と鎌倉幕府の関係は「融和か対立か」で割り切れるものではなく、流動的でもあったのです。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia
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