足利尊氏は武家政権を樹立するつもりはなかった!?善意が裏目に出て南北朝の対立に至った経緯

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足利尊氏は武家政権を樹立するつもりはなかった!?善意が裏目に出て南北朝の対立に至った経緯

「尊氏は武家政権を樹立するつもり」だった?

室町時代初期(1337~1392)は、南北朝時代と呼ばれています。この約600年間、朝廷は京都と奈良の吉野に分裂し、武力抗争を繰り広げました。

そうした抗争の背景には、足利尊氏と後醍醐天皇の対立があったとされています。以下はかつての通説です。

足利尊氏(Wikipediaより)

尊氏は、鎌倉幕府討伐に参加した後醍醐政権の功労者だった。だが後醍醐に不満を抱き、武家政権樹立を秘かに目指した。

尊氏は謀反を企てたとして後醍酬から追討軍を派遣されるも、これを撃破。上洛を果たすと、比叡山へ逃れた後醍醐に代わり、光厳上皇の復帰と光明天皇の即位を支援し、北朝を立てた。

対する後醍醐は吉野に南朝を開いたことで、二つの朝廷が立つ時代が始まった――。

しかし最近では、こうした通説には疑問が呈されています。尊氏には武家政権を樹立する気はなかったという見方が、現在は有力視されているのです。

動機なき謀反

そもそも尊氏が武家政権樹立を目指したと考えられてきたのは、鎌倉の幕府残党を鎮圧するために天皇に出陣の許可と、征夷大将軍の位を求めたからです。

その真意は、武家政権樹立にあると考えられてきました。

しかし、考えてみると尊氏には武家政権樹立の動機がありません。彼は建武政権下で、軍警察の最高責任者である鎮守府将軍として重用されています。

兄の死で偶然家督を継いだ尊氏にとって、北条家トップを超える地位につくなど、考えられなかったはずです。

後醍醐天皇(Wikipediaより)

また、この時代には足利家以外にも有力な源氏の家柄が多数あったから、お墨付きを与えてくれた後醍醐に感謝していたはずです。

『太平記』は、残党鎮圧後も尊氏が鎌倉に残留したことを謀反の根拠にしています。

しかし尊氏が帰京しなかったのは、関東の治安維持を優先したからだと考えられます。反乱は鎮圧したものの、彼は首謀者の北条時行をとり逃していました。よって治安が悪化するおそれがあり、すぐに帰京するのは危険だったのです。

ただ、尊氏の意図がどうあれ、尊氏謀反の噂が朝廷に舞い込むと、後醍醐は尊氏が謀反の準備をしているとみなし、尊氏の弁明を無視して討伐軍を派遣しました。

尊氏は恭順の意を示すために出家をして、戦いを弟の直義に任せています。しかし直義が敗走し続けたことで、尊氏はやむを得ず出陣。天皇の軍と戦わざるを得なくなったのです。

善意の天皇擁立

北朝成立後、尊氏は後醍醐に京への帰還を求めました。南北分裂を解消するためです。

皇位継承の証である三種の神器は、後醍醐によって比叡山に持ち出されたため、光明は神器なしでの即位しています。権威の正当性を示すためには、どうしても後醍醐との和睦が欠必要でした。

後醍醐はこれに応えて京へ戻り、三種の神器を北朝に渡しています。

尊氏が北朝を支持したのは、朝廷の混乱を防止するためでした。この頃、朝廷の儀式は後醍醐の不在により実施が難しくなっていました。そのまま天皇不在が長期に及べば、朝廷が機能不全に陥るおそれがあるため、天皇を擁立したわけです。

足利尊氏像

尊氏からすれば、北朝を優遇するつもりはありませんでした。

彼は光厳の院政開始を後押ししましたが、後醍醐の帰還後には、後醍醐の連なる皇統から天皇を即位させようとしていました。両者から交互に天皇を即位させることで、対立を抑え込もうとしたのです。

しかし後醍醐は吉野へ逃亡し、尊氏の目論見ははずれます。こうして、半世紀以上も朝廷が二分する事態が続いたのです。

つまり足利尊氏は、もともとは善意で天皇擁立を行ったわけですが、これが裏目に出て南北朝の対立へと至ってしまったということです。

参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年

画像:photoAC,Wikipedia

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