非情なまでの兵糧攻め!餓死者が続出、恐ろしいほど徹底した豊臣(羽柴)秀吉による「鳥取城の戦い」の戦略 (2/3ページ)
羽柴秀吉が決行した「鳥取城渇え殺し」【後編】
鳥取城の戦いとは?鳥取城は、織田信長が「名城」と評したお城です。戦国時代の山城を起源として、江戸時代には鳥取藩の居城として整備されました。日本最長の城郭復元木橋「擬宝珠橋」や日本唯一の球面石垣「巻石垣」などが有名です。
織田信長の命令により、毛利氏を討つことを目的として中国攻めが行われていました。秀吉はこの中国攻めにおいて数々の城を落としていきますが、鳥取城の戦いもそのうちのひとつ。
鳥取城攻めは2回行われています。1回目は1580年のこと。4~6月にかけて、鳥取城主であった山名豊国を降伏させます。山名豊国は彼の家臣によって追放され、新たな城主として毛利氏の重臣・吉川経家を迎え入れます。
2回目は1581年のことで、20,000の軍勢で鳥取城を攻めました。
鳥取城の戦いの恐ろしさ1:攻める前に入念な包囲網を形成豊臣秀吉軍は、黒田官兵衛が兵糧攻めを提案し、それを採用することにします。攻める前に、豊臣軍は鳥取城を70箇所以上の陣を敷いて包囲しました。
これにより、鳥取城は完全に孤立してしまい、支援ルートは断絶されてしまいます。
