【武将の就活】戦国大名の家臣は簡単に再就職ができたのか?戦国時代の官職について解説

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【武将の就活】戦国大名の家臣は簡単に再就職ができたのか?戦国時代の官職について解説

国務大臣としての「家老」

戦国時代に、領国経営を補佐するための家臣団の役職としてはどのようなものがあったのでしょうか。

知っているようで知らない、聞いたことはあるけど具体的にどういう役職なのかは分からない…。そんな、今さら聞けない事柄を今回はまとめてみました。

まず、戦国時代の家臣団の中心を担ったのは、家老(かろう)です。

織田信長の家老・林秀貞の邸宅跡(Wikipediaより)

大名は専制君主ではないので、家政の意志決定はすべて重臣の合議によって決められていました。この合議機関の構成員が家老であり、その呼び名は、大名家によっても異なっていたようです。

いずれの場合でも家老が一人ということはなく、必ず複数人で構成されていました。現代でいうなら大名が内閣総理大臣で、家老は国務大臣にあたります。

ちなみに、家老の「老」とは、年をとっているということではありません。これは物事に通じていることの意味で、主に譜代衆から選ばれました。一門衆が権力を持つと大名にとってかわることにもなりかねないからです。

また、外様衆が権力を持てばいつ反旗を翻されるかも分からないため、権力を分散させていたのです。

奉行・代官・目付

さて、家老が参加する合議機関で決められた政策を実行したのが奉行(ぶぎょう)です。

もともと、奉行というのは命令を奉じて実行することを指す言葉です。役職としては、現代でいえば各省庁の事務次官にあたる存在でした。

豊臣政権の五奉行の一人・長束正家(Wikipediaより)

彼らは領国を統治するため、政治・軍事・経済・外交・宗教など、それぞれが得意な分野で能力を発揮していました。

奉行の指示に従い、実際の支配にあたったのが、それぞれの家臣です。家臣は大名から安堵された土地を持っており、その土地を支配していました。

ただ、大名の領国が拡大すると大名の目が行き届かなくなる恐れも出てくるようになりました。そのため、家老を郡代として一郡単位で統轄させる大名もいました。

また、領内に散らばる大名の直轄地には代官(だいかん)が派遣されていました。代官とは、文字通り主君にかわって年貢の徴収などにあたった家臣のことです。

そしてこうした地方支配では、大名が家臣の動向をいちいち把握することが困難でした。そのため、家臣の行動を監察し、その不正を摘発するため目付(めつけ)という役職も設けられています。

ちなみに目付は、当時「横目(よこめ)」とも呼んでいたようです。

再就職も可能だった?

戦国時代は下剋上の世の中だったので、家臣とはいえ、必ずしも全幅の信頼をおくことはできませんでした。そのため、大名は特に信頼できる家臣を側近として取り立てるようになります。

側近には、身の回りの世話をする小姓近習だけでなく、右筆取次といった要職もありました。

例えば右筆は、いわば大名の秘書にあたりますが、ただ文書を代書しただけではありません。大名に近侍していた存在なので機密情報にも接しており、大名の諮問にも答えることもありました。

他にも取次という役職もあり、大名と家臣、あるいは大名と他国の使者との対面の場で仲介を果たしていました。

こうした家臣は、いずれも、大名の判断で登用されています。当時は、江戸時代のように「武士は二君にまみえず」という意識もなかったので、大名家を渡り歩くことも珍しいことではありませんでした。

また、主家が滅亡したり、出奔して牢人になったりした場合も、旧主から与えられた感状などを提出して仕官を求めることができたようです。

明智光秀も、牢人の立場から織田信長の家臣として再就職した経歴がある(写真は坂本城址公園)

ただ、大名から追放された場合にはなかなか再仕官はできなかった。というのも、当時は旧主の許可がなければ、新たな主君に仕官することが認められなかったからです。

これを奉公構といい、どんなに能力があっても、旧主によって再仕官を妨害されることも少なくなかったそうです。

参考資料:
『歴史人2022年5月号増刊図解戦国家臣団大全』2022年5月号増刊、ABCアーク
画像:photoAC,Wikipedia

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