徳川家康をも訓育した”黒衣の宰相”!今川家の繁栄に尽くした名軍師・太原雪斎の足跡を追う (2/3ページ)
このとき雪斎は、亡き氏輝の菩提寺として建立された臨済寺の住持になると共に、義元の帷軽に加わることになりました。
今川義元が、雪斎を自らの屋敷に近い臨在寺の住持として据えたことからも、その揺るぎない信頼関係が分かります。
これが軍師としての大原雪斎の誕生で、まわりからは執権や黒衣の宰相などと呼ばれるようになります。
さて、義元が天文15年(1546)から三河に侵攻したとき、今川軍を率いていたのは義元ではなく、実は雪斎だったことはあまり知られていません。
同17年3月の三河小豆坂の戦いで織田信秀を破ったときも、今川軍の大将は雪斎でした。
その雪斎の軍師としての働きがよくわかるのが、その翌年の安城城の戦いです。安城城を守っていたのは織田信秀の長男・信広ですが、雪斎は城攻めにあたり「信広を殺すな。生け捕りにせよ」と命じています。
そうして信広を生け捕りにして、織田方に取られていた松平竹千代、のちの家康との人質交換を成功させているのです。
なお、雪斎がその竹千代に兵法を教えていたことも『武辺咄聞書』から伺えます。
三国同盟も締結ほかにも雪斎は、僧侶として加持祈禱を行うとともに、外交面でも義元の軍師として大きな働きをしています。それが甲相駿三国同盟の締結です。