【光る君へ】平安時代、藤原道長に仕えた”殺人の達人”源頼親、その驚愕の実態を解説:その2 (2/3ページ)
大和国における興福寺との対立
頼親は大和国を統治するにあたり、寺社勢力の抵抗に直面します。
特に興福寺は、藤原氏の氏寺として絶大な力を保持。数千人の僧兵を抱え、実質的に大和国を治めていると言える存在でした。
寛弘3(1006)年、頼親と興福寺の間で事件が起こります。
頼親の郎党・当麻為頼(たいまのためより)が、興福寺領の池辺園を侵略。さらに人を殺害する事態に至りました。
興福寺側は為頼の屋敷を襲撃。焼き払うという報復行動に打って出ました。
この事件は、藤原道長の日記『御堂関白記』にも記録されています。頼親側と興福寺側の双方が朝廷に訴えを起こしました。
興福寺の別当・定澄(じょうちょう)は大衆2000人を組織。彼らを率いて京の都に頼親罷免の上訴を行っています。
この事件を皮切りに、頼親と興福寺との対立は深まり、彼の大和国での統治は次第に困難を極めることとなります。寺社勢力との衝突は、頼親の武力だけでは解決できない問題に発展し、彼の評判にも影響を与えることになりました。
「殺人の上手」という道長による人物評頼親はその後も大和国への勢力拡大に努めていました。
長和3(1014)年、主君・道長は頼親を摂津守に推挙。朝廷の陣定(会議)において審議されることとなりました。