「本能寺の変」と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【前編】 (3/4ページ)
しかし、その期待は打ち砕かれることになります。
藤孝の対応
藤孝が本能寺の変を知ったのは、事件の翌日である6月3日。
すぐさま藤孝は信長の死を悼むと称して剃髪(髪を剃って僧形になること)し、当主の座を息子・忠興に譲って隠居。さらに
光秀に義絶を通達する 大阪にいた織田信孝(信長の三男)に忠誠を誓う使者を出す たま(光秀の娘)を幽閉する 光秀からの使者を追い返すといった具合に「絶対に光秀には味方しない」という姿勢を、これでもかというくらいに打ち出します。
6月9日には再び光秀からの使者が訪れ、破格の好待遇で味方に誘う……というより、もはや泣きつくように懇願しますが断固拒否。
ずいぶん徹底的にやったなあという印象ですが、これには理由がありました。
前述の通り、藤孝と光秀が公私ともに親しい……というより一蓮托生の状態にあることは周知の事実でした。つまり本能寺の変の第一報を受けた世間が
「細川藤孝も一味に違いない」
と考えるのはむしろ自然なことですし、ちょっとくらい反光秀っぽいことをしても
「裏で繋がっているんでしょ?」
という疑いを拭いきることはできません。
津田信澄(信長の甥)は光秀の娘婿でしたが、それを理由に光秀に通じていたと誤解され、自刃に追い込まれています。藤孝も同じような目に遭う可能性は十分過ぎるほどありました。
光秀に与しないというパフォーマンスは、どれだけやってもやり過ぎということはなかったのです。