幕末期に悲劇的な最期を迎えた「彰義隊」トップ2のサムライ!大きく分けた人生の明暗 (2/3ページ)

Japaaan

渋沢派は隊を離脱し、新しく振武軍という組織を結成します。

この振武軍は、後日、武蔵国飯能(埼玉県飯能市)で官軍を相手に激戦を繰り広げることになります。

一方、彰義隊では頭取を譜代の幕臣から選出することになり、大目付・本多邦之輔が選ばれましたが、すぐに辞任。代わって、御使番の小田井蔵太と大目付の池田大隅守の二人が隊長となりました。

しかし、常に実権を握っていたのは副隊長の天野でした。彼は度胸があり、人間的にもスケールの大きな人物だったので自然とリーダーとして扱われたのです。

それぞれのその後

彰義隊は、慶喜が水戸へ移ってからも上野に居座り続けます。新政府軍と最後の一戦を交えようという者たちが全国から集まってきて、その人数は一時は3000人以上に膨らみました。

しかし、いざ新政府軍が攻撃を開始すると彰義隊は一日で壊滅。100名以上の戦死者をだし、残りは散り散りに逃げるばかりでした。

彰義隊士の墓(寛永寺)

天野も逃亡して市中に潜伏しますが、密告によって捕えられ、獄中生活五か月余で病気により獄死しています。その遺体は小塚原に遺棄されるという悲惨な末路を辿ったものの、彼は拷問に耐えて『斃休録』一巻を遺しました。

一方、天野と袂を分かった渋沢も、箱館で敗北した後に官軍に逮捕されています。

その後、1871年の出所後に渋沢栄一の推挙で大蔵省に出仕。1873年に出張先のイタリアから帰国すると退官して小野組に入社、同社の破産後に渋沢栄一の援助で渋沢商店を創立します。

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