【逃げ上手の若君】武将・北条時行の最大の庇護者にして諏訪氏の当主・諏訪頼重の人生と真の姿:中編 (3/3ページ)

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目的地は、かつて北条の本拠地である鎌倉でした。

このときの鎌倉は、建武政権の下に鎌倉将軍府が設置。鎌倉将軍府将軍・成良親王(後醍醐天皇の皇子)を擁した足利直義(尊氏の弟)が執権として統治に当たっていました。

建武2(1335)年7月20日前後、時行方は武蔵国女影原で鎌倉将軍府の澁川義季や岩松経家らと衝突。小手指ケ原では今川範満と、武蔵府中で小山秀朝とそれぞれ戦います。

激闘の末、将軍府の義季らはいずれも討死を遂げるに至ります。

頼重らには、かつて有力御家人であった三浦氏や宇都宮氏の一部も参加。勢いそのままに鎌倉への進撃を行います。

7月23日、不利と悟った足利直義は成良親王と足利義詮(尊氏の嫡男)を連れての脱出を決断。このとき、直義は政敵で幽閉中の護良親王(後醍醐天皇の皇子。前征夷大将軍)を殺害させるという暴挙に出ています。

護良親王が時行らに擁立されることを恐れてのことでした。どれほど時行と頼重の勢いが凄まじかったかがわかりますね。

7月25日、時行軍は鎌倉を制圧。逃げる直義勢を駿河国手越河原に追撃してさらに撃破するなど勝利を重ねます。

鎌倉の鶴岡八幡宮。頼重らは鎌倉を一時的に制圧するが…

次回、【後編】に続きます。

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