織田信長が戦国きっての”引っ越し魔”だったのは何故?安土に城を築き、京に築かなかった理由【前編】 (2/3ページ)
並の大名なら生まれた土地で生涯を過ごすことが多いわけですが、信長はそうではありませんでした。次々と引っ越していくのです。
いわば信長は「引っ越し魔」でもあったわけです。まずは、その経緯を見ていきましょう。
「引っ越し魔」織田信長まず、彼は青年期までを那古野城で過ごした後、1555年に清洲城へ本拠地を移します。それにともない、那古野城は廃城となりました。
しかし清洲にいたのも10年間ほどで、尾張を統一して隣国の美濃へ攻め入る前の1563年には小牧山城に移りました。
小牧山城は、新しく平野の中の丘に築いた城でしたが、城下町が建設されます。そして信長と家臣だけでなく、商人や職人も清洲から移転してきました。
この小牧山を本拠地として、信長は美濃の斎藤氏を攻めました。
ところが、山頂にある美濃の稲葉山城は難攻不落の城として知られ、信長軍も攻めあぐねました。ここでご存じの通り木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の活躍もあって、ようやく1567年に稲葉山城は落城しています。
すると、信長は今度はその稲葉山城を居城とし、名を「岐阜」と改めます。
そして、最後が安土城です。琵琶湖の湖畔に築城したものでこれは1576年に完成しました。
信長はこのように居城を次々と変えていった「引っ越し魔」のようなところがあったわけですが、これはなぜでしょう。