【光る君へ】まひろの最期(紫式部の没年)はいつ?いまだ決着がつかない諸説を一挙紹介! (2/3ページ)

Japaaan

道綱女)の書いたものであれば矛盾が生じない。萩谷朴・今井源衛らの説。

・寛仁4年(1020年)ごろ
→『平兼盛集(西本願寺本)』が治安元年(1021年)の成立とし、その前年に流行した疫病などによって亡くなったとする。上原作和たちの説。

・万寿2年(1025年)以後
→『栄花物語』の解釈により、娘の大弐三位(藤原賢子)が親仁親王(のち後冷泉天皇)の乳母となった時点ではまだ生きていたと考える。安藤為章などの説。

・長元年間(1028~1037年)
→藤原実資『小右記』に登場する「女房」は藤式部であるとする。倉本一宏らの説。

・長元4年(1031年)
→『続後撰集』に採録されている藤式部の和歌の詞書より。ただしこれは『紫式部集』からの再録である。角田文衛たちの説。

……結局どれも決め手にはならなそうですね。

本作の藤式部(まひろ)は天禄元年(970年)生まれ説が採られており、藤式部の没年は、おおむね長和2年(1013年)~長元4年(1031年)と諸説幅広くなっています。

これらの説に基づくと、藤式部は(生年を固定した場合)44~62歳の間に世を去ったと考えられるでしょう。

藤原道長より前か?後か?

藤原道長。『紫式部日記絵巻』より

藤式部の没年については結局分からないため、大河ドラマ「光る君へ」のエンディングを予想したいと思います。

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