日本における気象観測・天気予報の歴史 〜 明治時代には日本初の天気予報が登場

線状降水帯、ゲリラ豪雨、猛暑……。最近では特に異常気象と呼ばれる厳しい天候が多く発生しますよね。台風や大雪なども、人々の生活や移動に大きく影響します。また、晴れ、曇り、雨など、毎日の天気も生活と密接につながっていますよね。
そんな天気についての情報を得るときに、私たちが頼りにするのが天気予報ではないでしょうか。
そこで今回の記事では、日本における気象観測や天気予報の歴史について迫ってみたいと思います。
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なんと400語以上あるとも言われる情緒あふれる日本語の「雨の呼び名」を一挙ご紹介 明治以前の人々と天気のかかわりのちほど詳しく解説しますが、日本において本格的に気象観測や天気予報が行われるようになったのは、明治時代以降のことです。しかし、それ以前の時代でも、人々の生活と天気は大きく関係していました。
特に海に囲まれた島国である日本では、漁師・廻船などの船員たちは、天候が荒れているときに海に出ることは生命に関わることであったため、天気の観測・予測を「日和見」と呼んで重視していました。
今でも日和山(ひよりやま)という地名は多くありますよね。これらの山から、船乗りが船を出すかどうかを決めるために日和を見る(天候を予測する)ために利用していました。そのため、港町に多いという特徴があります。
また、江戸時代に船の運行を行っていた平戸藩の山崎家は天気見様(てんきみよう)と呼ばれる天気観測・予報に尽力していたといいます。
日本で最初の気象観測所が開設される明治時代はあらゆる社会の仕組みや文化が大きく変わった時代ですが、気象観測・天気予報も同じでした。
1800年代の半ばごろから、ヨーロッパやアメリカで天気予報が始まりました。日本では、1872年(明治5年)に北海道の函館に気候測量所がはじめて開設されました。
1875年(明治8年)には、気象器械が日本に持ち込まれました。また、特筆すべきは、このとき同時にイタリア製の地震計も持ち込まれたことです。これは、気象器械の調達を担当したシャーボー(H.Scharbau)という人物が、日本では地震が多いことを聞き、測点が移動しては困ることから、日本で測量をするにはまず地震観測が必要だと考えたことが理由だと言われています。
こうした器械の設置が完了したのは1875年5月のことでした。場所は、内務省地理寮構内(虎ノ門にある現在のホテルオークラのあたり)です。「東京気象台」の誕生です。
1884年、日本初の天気予報が発表1884年(明治17年)には、日本初の天気予報が発表されました。「全国一般風ノ向キハ定マリナシ、天気は変ワリ易シ但シ雨天ガチ。」という文言でした。
ちなみに、当時は今のようにテレビやインターネットもない時代。人々が天気予報をチェックしたのは、なんと始まったばかりの警察制度によって設置された「交番」だったとか。午前6時、午後2時、午後9時の1日3回、東京の交番に「天気予報」が貼り出され、人々はそれをわざわざ見に行っていたといいます。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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