討取った敵なんと200人超!剣聖とも剣豪とも称される戦国時代 最強の剣士・塚原卜伝の生涯 (2/2ページ)
鹿島神宮に仕える父は卜部氏であり、鹿島の太刀の継承者でした。
こうした背景もあり、小さなころから父に「鹿島古流」を、養父からは「香取神道流(かとりしんとうりゅう)」を学びました。10代半ばにして2つの剣術の流派を身につけ、一目置かれる存在に。
斬った相手の数、なんと○○○人!?17歳のとき、彼は修行に出ます。途中、戦に参加したり、教えを請われたりしたこともあり、京都に着くころにはすっかり有名な剣豪として知られていました。室町幕府11代将軍「足利義澄(あしかがよしずみ)」の目に留まり、足利氏直属の家来に取り立てられました。
「真剣の試合19度、戦場の働き37度、一度も不覚を取らず、矢傷6ヶ所以外に傷一つ受けず、立会って敵を討取ること212人」という逸話が残っています。200人以上を斬ったとは、すごい数字ですよね。
修行で自分を見つめ直す伝説的な剣豪になっていった塚原卜伝ですが、戦いのなかで多くの人が亡くなるのを見て、心身ともにボロボロになっていきました。そして、故郷の鹿島に帰ることにします。鹿島神宮に1000日籠り、自己の剣を見つめ直しました。
修行を重ね、「卜伝」と名乗るようになりました(幼名は朝孝(ともたか))。
「国に平和をもたらす剣」を伝えるため、将軍らにも指導その後、2回の廻国修業に出ます。3回目の修行の際には、自分が完成させた「国に平和をもたらす剣」である「一之太刀(ひとつのたち)」という剣を積極的に伝えていきました。
当時彼は70歳近くになっていましたが、このとき、将軍・足利義輝(よしてる)を始め、足利義昭(よしあき)、細川藤孝(ふじたか)、伊勢国司(いせこくし)の北畠具教(きたばたけとものり)といった有名な人々にも指導しました。
その後、鹿島に帰り、83歳で生涯を終えました。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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