【大河べらぼう】天明の狂歌界を牽引!狂歌の三大家のひとり「唐衣橘洲」とは何者?その生涯をたどる (2/3ページ)
のち小島謙之)、通称は源之助(げんのすけ)。字を温之(あつゆき/おんし)と称し、酔竹園(すいちくえん)という別号も持っていました。よほど酒が好きだったのでしょうか。
江戸四谷忍原横町に居を構え、内山賀邸(うちやま がてい)に和学と漢学、萩原宗固(はぎわら そうこ)に和歌を学びました。
やがて風刺や諧謔に富んだ狂歌への興味が高まり、明和6年(1769年)に同門の大田南畝(おおた なんぽ)や平秩東作(へづつ とうさく)らと狂歌会を開きます。
翌明和7年(1770年)には明和十五番狂歌合(めいわじゅうごばんきょうかあわせ)を開催。和歌の師匠である賀邸と宗固も判者(審判)として参加、大いに盛り上がりました。
これを契機として狂歌の知名度が高まり、狂歌師が世に広まるキッカケとなります。
狂歌の先駆者として活躍すること十数年。唐衣橘洲は大田南畝・朱楽菅江(あけら かんこう)と並ぶ狂歌の三大家とされました。
唐衣橘洲は風刺や諧謔を効かせつつも、温雅な作風で多くのファンを獲得したそうです。
一度は狂歌界から遠ざかる
しかし狂歌人気の高まりと共に、先駆者同士の対立も浮き彫りとなっていきます。
ジャンルが盛り上がるとよく起こる「ウチが元祖だ」「こっちが本家だ」的な争いですね。
唐衣橘洲は盟友の大田南畝と対立。