野球発祥の地は新橋だった!? 知られざる野球の伝道師はなんと徳川家 家臣の子孫

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野球発祥の地は新橋だった!? 知られざる野球の伝道師はなんと徳川家 家臣の子孫

昨年はメジャーリーガーの大谷翔平選手が話題でしたね。

野球といえばあの正岡子規が夢中になり、訳した語が現代の野球用語の基礎になっていることが知られています。

ベースボールを「野球」と名付けたのはなんと歌人・正岡子規だった!?…という誤解

ですので、野球を紹介したのは正岡子規だと思っている方も少なくないのでは?実は、鉄道技師の平岡凞(ひろし)さんがアメリカ留学中にベースボールを知り、帰国後に広めたのが始まりとのこと。

平岡凞さん(Wikipediaより)

そして日本で初めて本格的な野球チームを結成したのは、現在のサラリーマンの聖地、新橋なのだそうです。

平岡さんは明治11年(1878年)に現在の新橋停車場の構内に、「保健場」という野球場を設立。そしてここで野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を創設します。

ユニフォームを作るだけではなく、なんと米国のスポルディング社から用具の提供を受け、毎年ルールブックを取り寄せるという徹底ぶり。目まぐるしく変わるベースボールのルールにも対応したというのです。

新橋アスレチック倶楽部(Wikipediaより)

平岡さんは徳川家家臣の子孫

野球場まで作ったとは…、この平岡さん何者?と思ったら、なんと田安徳川家の家老を務めた家に生まれた人でした。田安徳川家といえば、第8代将軍吉宗の次男を家祖とし、明治維新後に徳川宗家を継いだ徳川家達さんが有名です。

平岡さんはアメリカへ自費留学しましたが、中退して機関車工場で工員として働き、そこで機械類の製造技術を身につけます。帰国後は工部省鉄道局に入り、その後独立。明治23年(1890)に創業した平岡工場は、日本初の民間鉄道車両メーカーでもあります。

また、平岡さんは日本人初のカーブを投げたともいわれ、その球は魔球といわれたとか。
彼は前述した正岡子規にも色々な野球の知識を伝授し、慶応義塾大の学生にも野球を教えて普及につとめます。こういった活動が大学野球の発展に礎になったということです。

残念ながら明治21年(1888)、平岡さんの退職と共に「新橋アスレチック倶楽部」は解散。しかし功績をたたえられ、1959年に野球殿堂入りをはたしています。また、その名を後世に伝えるため、2010年から全日本クラブ野球選手権大会の優勝チームへ「平岡杯」が授与されています。

初の野球チーム、初のカーブ…まさに初づくしの人生。
たった一人の熱意から、国民的スポーツに発展するなんて凄いことですね。

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