男好きの平賀源内を蕩かせた吉原の魅力とは…【大河べらぼう】1月12日放送の振り返り解説

吉原細見の刷新によって再び客を呼び込もうと思い立った蔦屋重三郎(横浜流星)。
客の興味を惹きつける序文を平賀源内(安田顕)に書いてもらおうと探し回り、何とか見つけ出したはいいものの、「吉原の何を誉めればいいんだ(意訳)」とご挨拶。

そこへ幼馴染の花の井(小芝風花)が機転を利かし、書いてもらった「吉原細見『嗚呼御江戸』」。吉原の将来を案じているのは自分だけじゃない。そんな前進を感じる一幕でした。
一方の江戸幕府内では、商業主義の田沼意次(渡辺謙)・一橋治済(生田斗真)らが、守旧派の松平武元(石坂浩二)・田安賢丸(寺田心。松平定信)らと対立を深めていきます。
そんな第2回放送「吉原細見『嗚呼御江戸』」。今週も気になるトピックを振り返っていきましょう!
鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)について
吉原細見の刷新を思い立った蔦重が、真っ先に相談したのは地本問屋の鱗形屋孫兵衛(うろこがたや まごべゑ)。蔦重にとって出版の師であり、またライバルとなっていく存在です。
平賀源内の序を勧めながらそのコストは蔦重の自腹、吉原細見のデータ見直しを求められても、その手間はやはり蔦重持ち。
やはり言い出しっぺが自ら動かないと、新たな取り組みはなかなか進まないものです。
孫兵衛とのやりとりを通して、蔦重は大きく成長していくことでしょう。
そんな鱗形屋孫兵衛は生没年不詳、苗字は山野、屋号は鶴鱗堂(鶴林堂)も使っています。
大伝馬町に開業し、菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)の絵本(絵草紙)はじめ噺本や仮名草子、浄瑠璃本などを手がけました。
やがて江戸の有力書店として台頭し、黒本・赤本・吉原細見なども幅広く出版します。
安永4年(1775年)には恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行、黄表紙出版を主導するまでの存在となりました。
かくして出版界の発展に貢献した鱗形屋孫兵衛ですが、業界発展にともなってライバルも増え、競争に敗れ去ってしまいます。
蔦重らの成長を見届けた孫兵衛は、どのような引き際が描かれるのでしょうか。
平沢常富(尾美としのり)について
松葉屋で貧家銭内(平賀源内)を見つけ、呼びかけたことで蔦重の活路を開いた平沢常富(ひらさわ つねとみ)。かねて色男を自称しており、吉原通いで知られていました。
平沢常富は武士(出羽国久保田藩士・江戸留守居役)でありながら、戯作者・狂歌師などとしても活躍した文化人です。
戯作者としては朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)、狂歌師としては手柄岡持(てがらの おかもち)。他にも亀山人(きさんじん)や道陀楼麻阿(どうだろう まあ)など、ユニークな筆名を使い分けていました。
勤めの余技として黄表紙や狂歌など、数々の創作で好評を博し、田沼政権時代には「天明狂歌」と呼ばれる一大ブームの牽引者となります。
やがて天明8年(1788年)に黄表紙『文武二道万石通』を上梓。これは松平定信による文武奨励政策(後世にいう寛政の改革)を風刺したもので、当局の怒りを買ったのは言うまでもありません。
主君・佐竹義和(久保田藩9代藩主)から厳しく叱責されたため、黄表紙からは手を引き、もっぱら狂歌に専念したそうです。
はたして作中ではどんな作品を披露してくれるのでしょうか。楽しみにしています。
平賀源内の名前について
蔦重に「平賀源内を知らないか」と尋ねられ、ちょっとからかいたくなった源内先生。
貧家銭内(ひんか ぜにない)というペンネームを思いつき、別人を演じていました。
平賀源内として知られる彼にはいくつも名前があり、それぞれ使いこなしていたようです。
ここではその一覧を紹介しましょう。
平賀源内(ひらが げんない)※源内は通称。男性が元服するとつける名前で、通常はこの名を使いました。 平賀元内(読み同じ)
※宝暦10年(1760年)以降、主君にはばかって改名(漢字を変更)しています。 平賀国倫(くにとも)
※こちらは諱(いみな)。現代でいう下の名前で、忌名とも書くように平時は使いません。 平賀国棟(くにむね)
※こちらも諱。文献によってはこちらの名前も使われています。 平賀士彝(しい)
※これは字(あざな)と言って、中国大陸の慣習に基づく成人男性の通称です。また子彝(読み同じ)とも書きました。 鳩渓(きゅうけい)
※これは讃岐国志度(香川県大川郡志度町)の地名(はとだに)からとった雅号です。 李山(りざん)
※俳句を詠む時は、こちらの俳号を用いました。 風来山人(ふうらいさんじん) 悟道軒(ごどうけん) 天竺浪人(てんじくろうにん)
※これらは戯作者としてのペンネームです。 福内鬼外(ふくうち きがい)
浄瑠璃を書く時は、こちらの筆名を用いています。
劇中で吉原細見「嗚呼御江戸」の序を書く時も、この福内鬼外でした。
ちなみに劇中で偽名として用いていた貧家銭内(ひんか ぜにない)とは、著作『放屁論後編』の登場人物です。
源内が愛した二代目・瀬川菊之丞について
「ここにも『瀬川』はいないのかい」
男好きの源内先生、吉原にやって来て探し回るのは「瀬川」の名前。瀬川という名跡は遊女だけでなく、歌舞伎役者の名跡でもありました。
源内が愛した二代目・瀬川菊之丞(せがわ きくのじょう)は、江戸でも人気の女形(おやま)だったそうです。
安永2年(1773年)閏3月13日に世を去ってしまい、寂しい思いをしていたのでしょう。
そんな瀬川菊之丞は寛保元年(1741年)に江戸郊外の王子(東京都北区)で生まれ、俳号の路考(ろこう)から王子路考と呼ばれました。
当世のインフルエンサーとして路考髷(まげ)・路考茶・路考櫛など様々なものにその名がつけられたと言いますから、よほどの人気だったのでしょう。
また現代でも人気の演目「鷺娘(さぎむすめ)」を初演したことでも知られ、その妙技で人々を魅了したのです。
そんな瀬川を偲びながら、花の井の舞を眺めた源内先生。
夜風に当たって巷を歩き、果たして吉原細見の序「嗚呼御江戸」を書き上げてくれたのでした。
第3回放送「千客万来『一目千本』」蔦重(横浜流星)は資金を集め北尾重政(橋本淳)と共に女郎を花に見立てた本『一目千本』に着手。本作りに夢中な蔦重を許せない駿河屋(高橋克実)。親子関係の行方は…。
※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより
新しいことを始めるには、何でも試行錯誤が付き物。手痛い出費や労力の末、蔦重は吉原細見「嗚呼御江戸」を完成させました。
これをキッカケとして出版に目覚めた蔦重は『一目千本』の制作を手がけますが、養父の駿河屋市右衛門(高橋克実)はこれが許せません。
何でもぶつかりながら成長していく蔦重の姿を、次週も見守って行きましょう!
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan