古代の天皇家に王朝交代はあったのか?天皇の「万世一系」をくつがえす衝撃の学説【前編】

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古代の天皇家に王朝交代はあったのか?天皇の「万世一系」をくつがえす衝撃の学説【前編】

古代史学界に衝撃を与えた騎馬民族征服王朝説

古代の日本がどのようにして始まり、誰が国を築いてきたかについて書かれたものといえば『古事記』『日本書紀』ですね。この2書を「記紀」と呼ぶことも多いです。

その記紀には、日本列島が神々によって創造されたのち、神々の子孫であるカムヤマトイワレヒコノミコトが九州の日向から東征し、大和の地を平定したと記されています。

このカムヤマトイワレヒコノミコトが初代天皇の神武天皇であり、以来、平成の今日まで天皇家は万世一系で皇位を守り続けてきたということです。

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今回は、これに対立する「騎馬民族征服王朝説」「三王朝交代説」という学説を前編・後編に分けてご紹介しましょう。

『神武天皇東征之図』に描かれた、八咫烏に導かれる神武天皇(Wikipediaより)

1947年、東北アジア史の大家・江上波夫が「騎馬民族征服王朝説」を唱え、それまでの定説とは異なる仮説を唱えました。

この説によれば、日本の古代国家を形成した天皇家の先祖は、東北アジアから朝鮮半島を経由して渡来した騎馬民族だということです。

より具体的には、4世紀の初めに崇神天皇を中心とする騎馬民族が九州に上陸し、4世紀末ないし5世紀の初めに東進したというもの。

彼らは畿内に応神王朝を開きましたが、その間に朝鮮半島南部の任那地方にいた彼らの旧勢力が衰退し、任那が新羅や高句麗に圧迫されるようになりました。

そこで、日本から任那へ外征軍を起こして旧勢力を回復した、というのです。

この騎馬民族征服王朝説に出てくる崇神天皇は第10代の天皇で、実在が確かと考えられている最初の天皇です。

桜井市にある崇神天皇の「磯城瑞籬宮」伝承地の碑

この崇神天皇は名をミマキイリヒコといいますが、「ミマキ」の「キ」は「城」の意味で、ミマキは「任那の王」の意味だともいわれます。

応神天皇は崇神天皇より5代あとの天皇で、この2人の天皇と任那との関係は『日本書紀』に記されています。

崇神56年の条には任那国が蘇那曷叱知を遣わして朝貢したとあり、応神16年の条には、新羅を討つために加羅(任那)に精兵を派遣したとあります。

これを騎馬民族征服王朝説の説くところと重ね合わせると、なるほどつじつまは合います。

しかし、騎馬民族征服王朝説は古代史学界をはじめ日本国民にも衝撃を与えましたが、専門家や研究者からの反論・異論も多くあり、支持は広がりませんでした

騎馬民族征服王朝説はのちの学説に大きな影響を与えましたが、そのうちの1つが、1954年に提唱された早稲田大学名誉教授・水野祐の「三王朝交替説」です。

これによると、古代の王朝は「古王朝」「中王朝」「新王朝」の順に交替したということです。

古王朝は4世紀初めから末頃までの王朝で、崇神・垂仁・景行・成務・仲哀天皇(記紀では第1~14代)の時代。

次に中王朝は5世紀の王朝で、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈(記紀では第15~25代)の時代。

そして、最後の新王朝が継体天皇(記紀では第26代)に始まる王朝です。少し専門的になりますが、【後編】ではこの説についてさらに詳しく見ていきましょう。

参考資料:
日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia

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