伊達政宗はなんと江戸幕府転覆を目論んでいた!?「慶長遣欧使節」に秘められた野心とは【前編】
宗教と通称は別物
江戸時代の外交というと、鎖国のイメージから、日本は限られた国としか外交がなかったと思いがちです。
しかし実は、鎖国が始まる前の江戸初期、徳川家康が生きていた時代には貿易は積極的に行われていました。
家康は、当初はキリスト教も黙認していました。というのも、宣教師がもたらす通商の利益が大きかったからです。
そこで1610(慶長15)年、家康はスペイン領のノビスパン(メキシコ)との通商を求め、京都の商人・田中勝介をスペインに派遣しましたが、通商協約は成立しませんでした。
その後、家康はキリスト教の布教によりスペインやポルトガルによる侵略を警戒するようになり、1612(慶長17)年には直轄領に、翌年には全国に禁教令を出しました。
その一方で、スペインとの通商を諦めてはいませんでした。家康にしてみれば、キリスト教が広まるのは嫌だけれど貿易が活発になって国が豊かになるのは喜ばしいということです。
虫のいい発想ではありますが、宗教と通商は切り離して考えられていたのです。そういう発想は現代とあまり変わりませんね。
慶長遣欧使節団そんな中、翌1613(慶長18)年春、仙台藩主・伊達政宗(1567~1636年)がスペインに使節を派遣したいと幕府に許可を求めてきました。
幕府が許可すると、政宗はサン・ファン・バウティスタ号と名づけられた巨大な船を造り、同年9月15日の夜、月ノ浦(宮城県牡鹿半島西岸)から出帆しました。
この慶長遣欧使節団は主催・仙台藩、後援・江戸幕府というべき一大事業で、使節団は政宗の家臣・支倉常長をはじめ、幕府の船奉行・向井将監、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ、スペイン使節セバスチャン・ビスカイノなど180余人から編成され、正使は常長が務めました。
船は太平洋を横断し、12月にノビスパンに到着。そこで半年近く滞在し、翌年5月、スペインの軍艦に乗って出発します。今度は大西洋を横断して、11月にようやくスペインの首都マドリードに到着しました。
そして翌年(元和元年)1月にはスペイン国王フィリップ3世に謁見。さらに一行は、交渉の協力を仰ぐためにローマに向い、11月にローマ法王にも謁見しています。
しかし通商協約は成立することなく、常長は1620(元和6)年8月、帰国しました。
政宗の本当の目的以上が、有名な慶長遣欧使節団の概要です。
これは、日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした画期的な出来事でした。常長たちは初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人ということになります。
定説では、家康はこの使節団に通商協約の成立を期待しましたが、政宗はそれとともに奥州への宣教師の派遣要請も指示したといいます。
当時、幕府の禁教政策は緩やかだったため、政宗は奥州にキリスト教を布教しようとしたのだといわれています。
ところが近年、政宗が常長をスペインに派遣した本当の目的は幕府転覆計画にあったという説が唱えられています。
この衝撃的な説によると、政宗は天下取りを目指して、当時世界最強といわれたスペインと軍事同盟を結び、倒幕を実行するために常長を派遣したというのです。
その根拠は何でしょうか。続きは【後編】で解説します。
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い!変わる日本史』宝島社(2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan