古代日本「磐井の乱」は反乱か?大和政権による捏造か?史料から浮かび上がる九州地方の豪族の新たな姿【前編】
古代日本の歴史には、大きな内乱がいくつか記録されています。例えば有名な壬申の乱は、天智天皇の死後、弟の大海人皇子が子の大友皇子に勝利した戦いです。
しかし、それより古い527年に起きた磐井の乱も見逃せません。これは、筑紫国造とされる磐井が大和政権に逆らった出来事です。
本稿ではこの、古代日本で発生した磐井の乱についてのミステリーを前編・後編に分けて説明します。
磐井の墓とされる、北部九州では最大規模の古墳・岩戸山古墳(Wikipediaより)
磐井は九州北部を治める地方豪族で、『日本書紀』では「筑紫国造磐井」と紹介されています。
彼が反乱を起こした背景には、朝鮮半島の情勢が絡んでいました。当時、日本と結んでいた任那が新羅に攻められ、継体天皇は任那の復興のために軍を送ろうとしました。
ところが、磐井がこれを阻止したのです。
『日本書紀』によると、新羅から賄賂を受け取った磐井は、火国や豊国の勢力を集めて大和の軍を妨害。海路まで封鎖してしまいました。
このような形で大和政権に盾突いたことから、磐井の行動は「乱」あるいは「反乱」として記録されることになったのです。
反乱の真相に迫る史料磐井の行動に怒った継体天皇は、528年に物部麁鹿火を派遣し、反乱を鎮圧させます。結果、磐井は斬られて戦いは終結しました。
『日本書紀』はこれを「磐井の反乱」と明確に記しますが、他の史料では少し様子が異なります。
例えば、『古事記』では「筑紫君磐井は天皇の命令に従わず、無礼だった」とだけ書かれ、反乱があったとか、磐井の行為が反乱だったなどとは明言していません。
また『筑後国風土記』も「強く暴挙で、天皇の命に従わなかった」と記すのみです。こうした記述の違いから、磐井が起こしたのが本当に「反乱」だったのかどうか、判断できないところがあるのです。
これについて研究者の熊谷公男氏は「磐井は国造ではなく、反乱後に子孫が国造になった可能性がある」と指摘しています。
つまり、彼は大和政権の正式な官吏ではなく、九州の有力豪族に過ぎなかったのかも知れません。
大和政権との対立当時の大和政権は近畿を中心に勢力を拡大中でしたが、まだその勢力は不安定なところがありました。継体天皇自身も、即位後すぐには大和に入れなかったほどです。
そんな中、九州で独自の勢力を誇る磐井がいたとしても不思議ではありません。
また、磐井と新羅との関係も興味深いポイントです。磐井が賄賂を受け取ったという記述がある文献は『日本書紀』に限られており、他の史料では贈賄の事実は裏付けられていません。
もしかすると、大和政権が磐井を悪者に仕立てるために脚色した可能性も考えられます。
ここまで磐井の乱の基本的な経緯と疑問点について説明しました。その解釈については【後編】で説明します。
参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社(2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia
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