剣術の強さを疑う声!?新選組・近藤勇の剣豪伝説はどこまで本当なのか?

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剣術の強さを疑う声!?新選組・近藤勇の剣豪伝説はどこまで本当なのか?

新選組のトップで剣の達人

幕末、尊攘派の志士らを恐れさせた戦闘集団がいました。泣く子も黙る新選組です。

トレードマークは「誠」の字を染め抜いた隊旗と、袖口に山形模様のある浅葱色の羽織。映画やテレビでおなじみの新選組は、プロの殺人集団であるにもかかわらずどこか颯爽としていて、今でも人気があります。

その新選組のトップにいたのが、局長の近藤勇です。

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1834年から1868年まで生きた彼は名刀「虎徹」を使ったといわれ、剣の達人というのが定説です。

近藤勇(Wikipediaより)

近藤が剣の道を目指したのは14歳のときです。1849年(嘉永2年)に天然理心流の剣術道場・試衛館に入門しました。

天然理心流というのは、遠江(静岡県)出身の近藤内蔵之助長裕が1795年(寛政7年)頃に創始したもので、剣術・柔術・棒術・気合術の総合武術のことです。3代目の近藤周助のとき、勇は入門を許可されます。

その後、彼はよく稽古に励み、7か月後に目録を許されました。またある日、周助の自宅に盗賊が侵入した時は、その盗賊を勇が退治しました。

周助は、そのときの彼の冷静沈着な態度と度胸の良さに感心し、養子にしました。

その後、勇は27歳の若さで指南免許を得て、周助の後を継ぎます。

元新選組隊士である阿部十郎が1899年(明治22年)に語った話によると、新選組隊士の剣術の腕前は近藤が一番強く、以下、永倉新八、沖田総司、斎藤一と続いたということです。

永倉は神道無念流の剣士で、18歳で免許皆伝になったといわれる剣士です。ご存じ、沖田総司は近藤と同じ天然理心流で「夭折の美剣士」といわれます。

沖田は胸の病で若くして世を去りましたが、有名な池田屋事件のときに血を吐きながら戦ったことで知られています。

新選組にはこの他にも戊辰戦争で戦った土方歳三もおり、いわゆる「役者」が揃っていますね。

それだけに、これまでに新選組を題材に使ったストーリーは何度もドラマ化されてきましたが、近年、特に近藤勇の「強さ」については、その定説を疑う声が高まっています。

他の道場に助けを求めた?

近藤勇の剣術の腕前について、彼は真剣勝負では確かに強かったが、竹刀を使った道場での試合は苦手だったのではないかという説があります。

新選組が設立される前、前述したように近藤は試衛館という道場の跡を継いでいました。

しかし道場といっても、入門してくるのは町内の若者や子どもがほとんどで、言ってみれば相手は素人のようなものです。

ところが時々、いわゆる道場破りが門を叩くことがありました。

そんな時、近藤は相手と面会し、どのくらい腕が立つか品定めをしたといいます。

そこで自分の手に負えないと判断すると、「しばしお待ちください」といって席を立ち、九段まで使者を送りました。

調布市の近藤勇像

九段には、斎藤弥九郎が開いた江戸三大道場のひとつである練兵館があり、近藤はそこの塾頭・渡辺昇に助けを求め、道場破りの技量に合った門弟を派遣してもらったといいます。

そして道場破りが倒されると、近藤は練兵館の門弟たちにふるまい酒をしたというのです。

こうして見ていくと、近藤勇は竹刀を使った試合は苦手だったという説が出てくるのも頷けますね。彼が剣豪としての実力を遺憾なく発揮するようになったのは、新選組のトップになったからこそ、だったのかも知れません。

剣豪としての近藤のイメージは、実戦での強さと人脈の巧みさに支えられていたのでしょう。

参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:photoAC,Wikipedia

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