大河『べらぼう』身請け後にいったい何が!?四代目瀬川が自害した真相と彼女の人物像に迫る【前編】

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大河『べらぼう』身請け後にいったい何が!?四代目瀬川が自害した真相と彼女の人物像に迫る【前編】

花の井(小芝風花)が五代目を襲名するまで、永らく空位であった瀬川の名跡。

先代の四代目瀬川が自害してしまったため、縁起の悪い名跡として敬遠されてきたのでした。

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そんな四代目瀬川とは、どんな女性だったのでしょうか。今回は四代目瀬川について調べたので、紹介したいと思います。

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下総生まれの多彩な美女

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四代目瀬川は生年不詳、下総国小見川村(千葉県香取市)の百姓娘として誕生しました。

後に商人の江市屋宗助(えのいちや そうすけ)に身請けされたことから、江市屋瀬川と呼び分けられます。

松葉屋の遊女となった彼女は大層な美貌で知られ、『交代盤栄記(宝暦4・1754年)』では「器量美しき事白芙蓉のごとし」と評されるほどでした。

芙蓉の花は一日でしおれてしまうことから儚い美女の喩えとされ、また一日の間に花の色を変えることから、絶えず人目を惹きつける魅力の象徴でもあります。

実際に四代目瀬川は多芸多彩の持ち主で、三味線・浄瑠璃・茶の湯・俳諧・囲碁・双六・蹴鞠・笛太鼓・舞踊に挙げ句は卜筮(ぼくぜい)まで何でもござれ。

四代目瀬川と遊んだお客たちは、きっと飽き知らずだったことでしょう。

更には書道に絵画まで達者であったと言いますから、逆に何が出来なかったのか聞いてみたいものですね。

友人・雛鶴への手紙

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四代目瀬川の教養は日常のやりとりからも偲ばれました。

例えば宝暦5年(1755年)春、丁子屋にいた遊女・雛鶴(ひなづる)が身請けされた時、こんな手紙を送っています。

……きゝ(聞き)参らし候処、此里の火宅(かたく)をけふしは(今日しは)はなれられて、涼しき都へ御根引(おんねひき)の花、めつらしき御新枕、御浦山敷(おうらやましき)事はものかは、殊に殿は木そもじ様は土一陰陽を起し、陽は養にして御一生やしなふと云字の卦、万人を養育し、万人にかしづかるゝ(傅かるる)と頼母敷(たのもしき)も、めて度(めでたき)御中とちよつとうらなゐ(占い)まいらせ候 穴賢……

【意訳】お聞きしたところ、今日は吉原遊郭を離れて涼しき都へ移られるそうですね。本当に珍しく、うらやましいことと思います。あなた様の未来を陰陽で占いましたところ、陽(よう)は養(よう)に通じて一生暮らしに困らないという結果がでました。多くの子宝に恵まれ、みんなから慕われることでしょう。他人様の運勢を勝手に占うなんてはしたないことではありますが、吉事に吉兆を添えたく、不躾ながらお知らせいたしました。あなかしこ。

……とまぁそんなことを唐紙に書いて、餞別と共に雛鶴へ贈ったと言います。

果たして、この雛鶴は身請けされて幸せになったのでしょうか。

『源氏物語』に基づく松葉屋の符牒

四代目瀬川は風雅にも嗜みがあり、当時の松葉屋では間夫(まぶ。間男)を「はゝきゞ(ははきぎ。帚木)」、遣手(やりて)を「かゞり火(かがりび。篝火)」と呼んでいました。

これらの符牒(隠語)はいずれも平安文学『源氏物語』から採られたものです。

帚木(ははきぎ):第2帖のタイトル。
主人公の光源氏が仲間たちと女性の品評を語り合いながら、昔の恋を思い出す場面。 篝火(かがりび):第26帖のタイトル。
光源氏が娘の玉鬘(たまかずら。実は血が繋がっていない)に言い寄り、彼女が困惑する場面。

それぞれ、何とも言えず意味深なネーミングですね。

いずれも四代目瀬川が呼び始めたそうですが、彼女の造詣とセンス、そして松葉屋のみんなが彼女に憧れる信望の厚さがうかがえますね。

【後編へ続く】

※参考文献:

内藤耻叟ら標註『近古文芸温知叢書 第10編』国立国会図書館デジタルコレクション 三田村玄龍『鳶魚劇談』春陽堂、1925年9月 三田村鳶魚『江戸の人物 史実と芝居と』青蛙房、1956年3月

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