世界初の画期的な試み!江戸時代、鬼平・長谷川平蔵は犯罪者の更生施設「人足寄場」も設立していた!【後編】
資金不足と平蔵の工夫
【前編】では、『鬼平犯科帳』で有名な長谷川平蔵が、犯罪者の刑務所兼更生施設でもあった人足寄場の設立のために尽力してきたことを説明しました。
※【前編】の記事↓
世界初の画期的な試み!江戸時代、鬼平・長谷川平蔵は犯罪者の更生施設「人足寄場」も設立していた!【前編】【後編】では、資金面での苦労とその成果について見ていきましょう。
平蔵は、ご存じの通り江戸の治安を守る特殊部隊・火付盗賊改の長官でした。一方、彼はその任に加えて、人足寄場の運営にもあたっています。
この施設の設置を提案したのは平蔵自身でしたが、多くの困難がありました。
最も苦慮したのは資金面でした。初年度の予算は米500俵、金500両だったのですが、翌年には幕府の財政難から米300俵、金300両に減り、4割も予算を削減されています。
このように幕府からの資金が十分ではなかったため、平蔵は武士としては前代未聞の方法で経費の不足を補いました。具体的には、幕府の御金蔵から3000両を借り受け、その金で銭貨を買ったのです。
ちょっと分かりにくいですが、その経緯は以下の通りです。
相場介入と賃貸収入平蔵は、松平定信の了承を得て町奉行と同席の上で、物価を引き下げるよう江戸の大商人に命じました。
これによって銭貨の価値が上がり、金貨の価値が下がります。
その結果、銭相場は1両につき6貫200文から5貫300文に下がり、金安銭高になります。
そこで平蔵は再び金を買い戻し、御金蔵に3000両を返済した後の残金を寄場予算としました。
つまり、現代風に言えば政府が意図的に相場へ介入し、それで得た儲けで行政施設の運営資金に充てたわけです。今だったらとんでもない話ですね。
これによって、彼は大きな利益を得ています。ただしこのやり方は、清廉潔白な政治をモットーとする松平定信には嫌悪されたようです。
長谷川が、ついに奉行になれず本来は臨時職である火付盗賊改長官のポジションから最後まで動くことがなかったのは、こうした原因もありました。彼は定信から守銭奴と見なされて嫌われていたのです。
ちなみに、人足寄場の空き地は材木・かきがら・種炭などの置場として民間業者に賃貸され、この賃貸料によって寄場費用の3分の1を補ったそうです。
放蕩時代の平蔵は、屋敷の一部を町人に賃貸していたことがありました。その経験がここで活かされたのでしょう。
世界初の更生施設としての成果ところで、収容者が作った物の売上の2割は差し引かれますが、残金の3分の2は収容者に支払われました。
そして、「自分」=自立厚生を建前に、食事代、衣服代、髪結い代、風呂代、鼻紙代などが差し引かれます。
さらに残金の3分の1は強制的に本人の貯金とされ、一定額が貯まると釈放されたのです。
寛政2年(1790年)、平蔵は寄場設置の功労で金3枚と時服を賜っています。
また寛政4年(1792年)、人足寄場の任を解かれる際には褒美として金5枚を授かりました。
人足寄場は厳罰による犯罪抑止とは異なり、犯罪者の改心によって放免させる施設として、世界に先駆けた更生施設でした。前述の通り、平蔵は松平定信から嫌われていたとはいえ、その働きぶりは確実に評価されていたのです。
ちなみに似たような発想のものとして、イギリスのノーフォーク島で1840年代に導入された仮釈放制度が挙げられます。
これはアレクサンダー・マコノキーが考案した「マーク制度」が基で、囚人の更生を目指す画期的なものでした。良い行動で点数を貯め、条件付き解放を得るという仕組みだったのです。
この制度は後の仮釈放制度に影響を与え、近代刑罰の原型となりました。
で、世界的に革新的とされたこの制度よりも一年早く、平蔵は「犯罪者の更生」の観点から人足寄場を設置していたことになります。
こうした囚人の更生施設の設置は、実は世界初の画期的な試みだったのです。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書
画像:photoAC,Wikipedia
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