伝説で彩られた「元寇」「蒙古襲来」の真相に迫る!神風伝説とフビライの真の意図について解説【前編】

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伝説で彩られた「元寇」「蒙古襲来」の真相に迫る!神風伝説とフビライの真の意図について解説【前編】
激怒した鎌倉幕府

本稿では、元寇あるいは蒙古襲来の歴史的背景とその真相について、前編・後編に分けて説明します。

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1268年正月、九州の大宰府に高麗から潘阜という使者がやってきます。彼は高麗からの国書とともに、服属させられている元からの国書を差し出しました。

元からの国書は大宰府から幕府のある鎌倉へと送られます。その書き出しは「上天の眷命せる大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず」と始まっていました。

「上天眷命」とは「天命を受けた」という意味であり、「大蒙古国皇帝」、すなわちフビライを日本国王より上においた表現です。

フビライ(Wikipediaより)

国書は日本に国交と服属を求め、「兵を用うるに至りては、それたれか好む所ならん」と結んでいました。つまり、フビライは武力を使うようなことはしたくないといいます。

しかし、「言うことを聞かなければ痛い目にあわせるぞ」とも読める文章です。これを読んだ幕府の執権・北条政村は激怒し、国書を朝廷に届けました。

朝廷は連日協議した結果、「返書を送らない」と決めます。その後、フビライは2度目の使者を日本へ送りますが、幕府は先の国書の内容が無礼だといって元へ返してしまいます。

「神風」の真実

すると、1274年10月、元の大軍が軍船に乗って押し寄せてきます。

これが皆さんご存じの「元寇」または「蒙古襲来」と呼ばれる出来事で、それぞれ1274年の襲来を「文永の役」、1281年7月の襲来を「弘安の役」と呼びます。

『蒙古襲来絵詞』より文永の役の鳥飼潟の戦い(Wikipediaより)

ところが、2度の襲来とも奇跡的な大風が吹き、元軍を撤退させたことから、古来よりこの風は神国日本の神々による「神風」だといわれてきました。

ここまでで、これまで伝えられてきた蒙古襲来の経緯を述べましたが、この「神風」による元軍の撤退という出来事は、ある種の伝説に過ぎないと言われています。

元側の史料である『元史』を検証しても、この時、元軍が大風で撤退したという記述はありません。よって実際には神風は吹かなかったか、または大風があったとしても、それは神風というようなものではなく「台風」あるいは玄界灘ではよく見られる強い「季節風」だったという説もあります。

では、なぜ古来、この時の大風は神風だと信じられたのでしょうか。

そもそもの原因は、石清水八幡宮で行われた夷狄降伏の祈禱にありました。この祈祷の数日後、西国から早馬が到着し、祈願したその日に大風によって元軍が滅亡したと伝えられたことから「神風が吹いた」と信じられるようになったのです。

ということで「神風」伝説は今や定説ではなくなっています。このことは、日本史好きの人なら聞いたことがあるでしょう。

ただこの、いわゆる蒙古襲来については他にも疑問があります。

そもそも蒙古襲来の目的は何だったのでしょうか。日本を征服することが目的なら、なぜ三度目の蒙古襲来はなかったのでしょう。

フビライの目的は、本当に日本を恫喝・征服することだったのでしょうか? これについては【後編】で説明します。

参考資料:日本歴史楽会『あなたの歴史知識はもう古い! 変わる日本史』宝島社 (2014/8/20)
画像:wikipedia

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