波乱と苦難…なんと10年もの過酷なサバイバル生活!江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の生涯【後編】
前回に引き続き、江戸時代の漂流民、大黒屋光太夫の過酷なロシア漂流物語についてご紹介します。
※【前編】の記事↓
なんと10年にも及ぶ過酷なサバイバル生活!波乱と苦難…江戸時代の漂流民・大黒屋光太夫の生涯【前編】
大黒屋光太夫と磯吉 Wikipediaより
ロシアを大横断
天明7年(1787)の夏、一行はカムチャッカ半島に着き、ニジニカムチャツクに連れていかれます。食事も支給され、気温も比較的温暖でここの生活はアムチトカ島より良いもの…かと思いきや、冬になった途端、アムチトカ島を超える寒さと飢饉で木の皮しか食べるものがなくなり、3人の仲間が壊血病にかかって命を落としました。
アムチトカ島も充分に過酷でしたが、それを超えるほどの飢饉でした。そのうちに春が訪れ、川で魚が取れるようになり、6人だけは餓死を免れました。食べ物が尽きた状況で6人が生き残ったのは、どんな時も生きて日本に帰る意思を失わず、仲間を励まし統率し続けた光太夫の存在が大きかったようです。
またもや減ってしまった光太夫一行は「日本に帰国するにはイルクーツクのシベリア総督府まで行けば帰国に繋がるかもしれない」という情報だけを頼りに、マイナス50度を超える極寒の中を移動し続け、オホーツク、ヤクーツク、ついにイルクーツクに至ります。漂流から実に7年後の寛政1年(1789)の事でした。
イルクーツクにて…到着したイルクーツクでショッキングな出来事が起こります。仲間のうち、庄蔵という青年が移動中に凍傷にかかり、片脚を切断してしまったのです。更には一縷の望みでシベリア総督府に2度帰国嘆願書を提出しましたが、一度は返事が来ず、ようやく来た返事は「帰国は諦め、日本人学校の教師になれ」という残酷なものでした。
ロシアは光太夫らを日本語教師として学校を開き、日本語の通訳を育成して日本に交易を求めようと考えていたのです。日本語教師を受けたら最後、死ぬまでこの地で教師として生涯を送るしかない。そして鎖国のために自国を取り巻く世界情勢をよく知らない日本は、世界各国の野望に飲み込まれてしまうかもしれない…。
光太夫はこの国難を日本に知らせるためにも、何が何でも帰国しなければならないと思い始めます。こうした考えから彼は日本人学校の話を断り、漂流話を聞きたがるイルクーツクの上流市民らの晩餐会に毎晩招かれ、地道にコネクションを作り続けました。
そんな中、キリル・ラックスマンという人物を紹介されます。
ラックスマンとの出会い光太夫が紹介されたキリル・ラックスマンは、高名な博物学者として、政府高官ばかりか女帝エカチェリーナ2世とも知遇を得た人物でした。彼は光太夫らの話を親身になって聞いてくれた上、衣食住を支援してくれる事になりました。日本人学校への仕官を断ったために、ロシアからの補助金を打ち切られて窮した光太夫らは、金銭面でもラックスマンの支援を受けつつ、更にラックスマンの手で3度目の帰国願いを提出してもらったのでした。
しかし待てど暮らせどその帰国願いの返信はなく、このままでは拉致があかないと考えたラックスマンは、自身がエカチェリーナ2世に拝謁する場に光太夫を連れて行き、直接帰国を嘆願する事を提案します。
女帝エカチェリーナ2世に拝謁ようやく一筋の希望が見えてきた寛政3年(1791)正月明け、生き残った仲間の中では一番年上だった九右衛門が病死。悲しみを堪えて、光太夫はラックスマンに伴われてペテルブルクに向け出発します。
途中、ラックスマンの大病で思ったように旅程が進まず、5月にようやく女帝の居る避暑地ツァールスコエ・セロの宮殿に到着。そして運命の6月28日、ついに光太夫は女帝エカチェリーナ2世に拝謁したのです。
ツァールスコエ・セロの宮殿 Wikipediaより
「可哀想に…」。
これがエカチェリーナ2世が光太夫の話を聞いて初めに発した言葉でした。彼女は光太夫の漂流話に深い同情と興味を示し、決められていた時間を大幅に超えても質問を続け、8年間の出来事を詳らかに話させました。そして後日、今まで帰国嘆願を握り潰していた官人を探し出して罰したのでした。
エカチェリーナ2世は7月の下旬にもう一度光太夫を招き、彼の口から更に詳しく漂流話を聞きました。光太夫は求められるままに仔細を話したほか、この機を逃すまいと、帰国の意思を精一杯主張しました。果たして彼らの帰国は許されるのでしょうか…?
ついに帰国へその日から4ヶ月、またもや音沙汰のない苦しい日々を送ったのち、ついに念願の日がやって来たのです。ペテルブルクに呼び戻された光太夫は、「日本漂流民の帰国の願いを許す」という待ちわびた沙汰をついに受けたのです。
この裏では、日本漂流民の送還が日本との貿易のきっかけになるかもしれないという思惑もあったのですが、兎にも角にも光太夫らは帰国できる事になったのです。
年が明けて寛政4年(1792)9月13日、光太夫らはオホーツク港を日本に向けて出航しました。
ただし、凍傷で片足を失った庄蔵は、もはやこの体で日本に帰国する事は不可能と判断し、早い段階でロシア正教に帰依していました。
また、新蔵という青年も1度病に伏せり、その時に帰国を諦め庄蔵に倣って洗礼を受けました。その後快癒しますが帰依してしまった以上は帰国できない運命を受け入れ、2人で日本人学校の教師としてイルクーツクに永住する事に決めたのでした。
こうして、光太夫含め小市、磯吉の3人のみが日本に送還されました。漂流から実に、9年9ヶ月の歳月が流れていました。
日本でのその後の生活日本に還ったものの、年長の小市は根室で壊血病のため死去。残る光太夫と磯吉は無念な思いを胸に抱えつつ、江戸に送られました。彼等は11代将軍徳川家斉に謁見し、10年に及ぶ漂流生活の詳細と、日本をとりまくロシアほか海外諸国の情勢を語りました。
幕府は2人がもたらした情報を受け、海外諸国に対して防衛意識を強めたといいます。2人は聞き取り調査ののち、小石川の薬草園内に住まいを与えられ、そこで新しい妻を娶って生涯暮らす事になりました。
2人を解放してしまうと、彼等が10年に渡って見聞きしたロシアの情報が周りの人々に漏れて鎖国政策に悪影響を及ぼすと考えられたのと、いざという時には彼等をロシアとの通訳に利用したいという幕府の思惑がありました。
ただし、伊勢に帰りたいという2人の願いは一応聞き届けられ、1度だけ2人は伊勢への帰省を許されたといいます。
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反対に、江戸に家族が訪ねてきた事もあったようです。
その後、 大黒屋光太夫は文政11年(1828)に78歳(年齢は数え年)で、磯吉はその10年後、75歳という長寿で生涯を閉じました。どんな状況でも絶望せず、強い意志をもって行動したからこそ迎えることのできた、祖国日本での穏やかな最期でした。(終)
参考文献:山下恒夫 『大黒屋光太夫―帝政ロシア漂流の物語』岩波新書
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