犯罪捜査も上の指示が必要!?鬼平・長谷川平蔵が務めた「火付盗賊改」は意外と制約が多かった
『鬼平犯科帳』で活躍する鬼平こと長谷川平蔵は、若い頃の放蕩生活の経験から江戸の闇社会に通じていました。
彼はそうした知見を活かして火付盗賊改の長官として捜査を行い、高い検挙率を誇りました。
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江戸時代、わずか50人で江戸の犯罪を取り締まった「火付盗賊改」はどんな組織構成だったのか? 鬼平・長谷川平蔵が務めた江戸時代の特別警察「火付盗賊改」実は意外と権限が弱かった?小説では、与力や同心が江戸市中を巡回し、盗賊団の逮捕となれば、夜間であってもその任にあたる様子が描かれています。
あれは決して誇張ではなく、実際に召捕方廻方の与力や手付同心は昼夜を問わず市中を巡回しました。その際の服装は、基本的に袴を着けない着流し姿だったそうです。
巡回は、吉原遊廓、堺町・葺屋町・木挽町などの芝居小屋、相撲興行場、花火会場など、人が多く集まる場所が重点的に行われました。芝居町への臨検は客に迷惑をかけないよう、一人か二人が中に入り、ほかの者は外で待っているというやり方でした。
ちなみに火盗改は、幕府軍の先陣を務める戦闘部隊である御先手組から採用されましたが、三奉行の行政範囲が明確に定められている中で馬や船による移動も自由が与えられ、関東周辺の捜査・捕縛権の自由裁量が認められていました。
また、賊が抵抗すれば切り捨てることも許可されており、取り調べも行うことができました。
制約が多かった火付盗賊改このように武力と機動力を持った、いわば特別警察にあたる火付盗賊改ですが、だからといって現代アメリカのFBI(連邦捜査局)のように自由に捜査できるわけではありませんでした。
『鬼平犯科帳』では、与力・同心が犯人を慎重に追跡し、盗人宿(アジト)を特定したのちに人数を揃えて踏み込むシーンが多くあります。しかし、実際の捕物でも安易に踏み入ることはありませんでした。
例えば、追跡中の犯人が町家に逃げ込んだ場合は踏み入って逮捕することができましたが、捜査の結果家屋に犯人がいることが判明し、そこに踏み入る場合には町役人が随行することになっていたのです。
『鬼平犯科帳』の舞台である江戸の町並みを再現した羽生パーキングエリア
江戸とその周辺の関東八州の治安維持の担当は細かく決められていました。
町人地や寺社門前町は町奉行、江戸の寺社境内や江戸以外の寺社門前町、僧侶や社人などは寺社奉行、幕府直轄地の天領は勘定奉行と配下の代官の管轄でした。
このような分担制度の弊害から、特別警察である火盗改が生まれたわけですが、行政権が無いために制約も多かったのです。
必須だった「上の指示」例えば、町家や百姓家で賭博が行われていた場合は、発見次第、賭場への踏み込みができました。
しかし、武家屋敷や寺院などでの博打は、町奉行所や寺社奉行所の管轄のため、辻番所(武家地の警備をする番所)に武家屋敷の主の姓名と役職を確認し、長官の指示を待つことになっていました。
武家屋敷や寺院に犯人とおぼしき怪しい人物がいる場合も安易に踏み入ることはできず、同様の手続きが必要でした。
江戸府外を巡回する場合は勘定奉行に通知する必要があり、勘定奉行から巡回地を管轄する代官に連絡されました。
組織で働いている人なら、こうした「いちいち上の指示を仰がなければならない」やり方の面倒臭さはよくご存じでしょう。ここまでの文章を読んだだけでも、意外と鬼平も大変だったんだなと思うのではないでしょうか。
戒行寺の長谷川平蔵宣以供養之碑(Wikipediaより)
『鬼平犯科帳』では、馬に乗った鬼平や提灯を掲げた捕物衆による大立ち回りが描かれています。
しかし実際の捕物では、関係省庁への事前の調整が必要な場合も多かったようです。
とはいえ、少し見方を変えてみれば、こうしたさまざまな制約がある中で多くの犯罪者を逮捕した長谷川平蔵が稀代の長官だったのは間違いありません。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書
画像:photoAC,Wikipedia
トップ画像:徳川刑事図譜より
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