【史実】幼いころ養子に出した蔦屋重三郎と再会する実母・つよ(高岡早紀)の生涯をたどる「大河 べらぼう」 (2/4ページ)

Japaaan

広瀬氏者書肆耕書堂母也 諱津与江戸人 帰尾陽人丸山氏 生柯理而出 柯理幼冒喜多川氏称蔦屋重三郎 其居近倡門 天明三年癸卯九月移居城東通油町而開一書肆 競刻快書大行 都下之好稗史者皆称耕書堂 寛政四年壬子十月二十六日広瀬氏病死葬城北正法寺 癸丑二月柯理来請曰小人七歳離母而復合以有今日 願得片言志於墓以報劬労 予曰吾見人破産而入曲中者矣未聞出曲中而起業者也 予之志不渝則蓋足以観母氏之遺教矣 銘曰小説九百母徳可摘 寛政癸丑暮春南畝

※大田南畝「浅正法寺 実母顕彰碑文」より。

これによると、尾張の丸山(まるやま)何某と結婚して柯理(からまる。蔦重の幼名)を生み、柯理が7歳の時に喜多川氏(蔦屋)へ養子に出しました。

広瀬津与が柯理を養子に出したのは、生活が苦しかったためか、あるいは丸山何某との夫婦関係が何かしらの影響を及ぼしたのかも知れません。

当時吉原遊廓の「蔦屋」は、吉原仲之町にある茶屋「蔦屋利兵衛(りへゑ)」、もしくは吉原江戸町二丁目にある「蔦屋理右衛門(りゑもん)」。どちら(あるいは別の家)に養子入りしたのか、ハッキリしていないようです。

その後、柯理は立派に成長。蔦屋重三郎と改名し、仰せの通油町(とおりあぶらちょう。江戸日本橋)に店を構える書肆(しょし。本屋)へと成長しました。

やがて広瀬津与は蔦重に迎えられますが、寛政4年(1792年)10月26日に病死。その亡骸は城北の正法寺(東京都台東区)に葬られます。

翌寛政5年(1793年)2月、蔦重は正法寺を参詣し、母への感謝を述べたのでした。

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