【大河べらぼう】蔦重と松平定信(寺田心)の戦い勃発!?史実を基にストーリーの次なる局面を考察[後編]

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【大河べらぼう】蔦重と松平定信(寺田心)の戦い勃発!?史実を基にストーリーの次なる局面を考察[後編]

瀬川(小芝風花)との別れ、平賀源内(安田顕)の死。主人公・蔦屋重三郎(横浜流星)の前半生の山場ともいえる二大事件を経て、ドラマ『べらぼう』は新章に突入していきます。

今回は、『べらぼう』の展開について、史実を踏まえつつ今後の展望を考えてみました。

【前編】の記事↓

【大河べらぼう】新章突入!平賀源内が去った後、史実を基に次なる局面を考察〜田沼意次 全盛と蔦重の成長〜[前編]

【後編】では、松平定信(寺田心)が進めた「寛政の改革」による出版統制に対し、蔦屋重三郎がどのように立ち向かっていったのかをご紹介しましょう。

市民からの反発がさらなる厳しい風紀粛正に

1787年、松平定信は徳川御三家の推挙を受けて、第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座に就任します。

松平定信 wiki

老中就任後、定信は田沼意次派の勢力を幕閣から排除し、寛政の改革を断行して幕政再建を目指した。

寛政の改革は、「綱紀粛正」「財政再建」「農村復興」を主要な柱としますが、この中で蔦重を悩ませたのが「綱紀粛正」であったのです。

定信が「綱紀粛正」を施政の重要な柱としたのは、田沼時代に賄賂をはじめとする金銭の腐敗が横行したこと、また天変地異による度重なる飢饉で農村にいられなくなった農民が江戸に大量に流入し、社会秩序が乱れた状況を是正するためでした。

天明飢饉之図 wiki

定信は、対策として倹約を推進するとともに、風紀粛正を厳格に実施しました。町人の贅沢を抑えるだけでなく、銭湯での男女混浴の禁止や岡場所の統制など、風俗に対する取り締まりを徹底し、55か所の岡場所が取り潰しの憂き目にあったのです。

定信は、このような政策によって江戸の景気が悪化すると考えていました。それにより、江戸に集まった農民が仕事を得られなくなり、帰農者が増え、農村の復興が図れると目論んでいたようです。

この定信の予測は的中し、意次の時代とは対照的に、江戸は不景気に陥りました。

当盛美人揃之内 岡場所(深川)二代歌川国貞

しかし、定信の意図に反して、農民たちの多くは荒廃した農村へ戻るよりも、なんとか仕事が得られる江戸に留まります。当然ながら、江戸市民からは強い反発が起こり、定信はこれを抑えるためにさらに厳しい風紀粛正を推し進めたのです。

出版統制により消された喜三二と春町

定信による寛政の改革は、出版界にも厳しい統制を課しました。本の内容はもとより、浮世絵のテーマや色使い、装丁に至るまで、さまざまな規制が設けられたのです。
こうした規制に対して、蔦重は抵抗の姿勢を示しました。寛政の改革を揶揄し、定信の政策を批判するような黄表紙を次々と世に送り出したのです。

1788年、朋誠堂喜三二(尾美としのり)作、喜多川歌麿(染谷将太)挿絵による『文武二道万石通』が刊行されました。この作品は定信の文武奨励策を茶化した内容で、江戸市民から絶賛され、大ベストセラーとなります。

『文武二道万石通』(東京都立中央図書館所蔵) 出典: 国書データベース

翌年には、その後日譚にあたる恋川春町(岡山天音)作『鸚鵡返文武二道』も出版され、こちらも大ヒットを記録します。

しかし、蔦重によるこれらの動きは当然ながら幕府の怒りを買い、定信は両作品を発禁処分とするとともに、武士であり作家でもあった喜三二と春町に対しても強い圧力をかけました。

『鸚鵡返文武二道』(江戸東京博物館所蔵) 出典: 国書データベース

駿河小島藩士であった恋川春町は、隠居を命じられ、その3か月後に死去します。これは幕府から出頭を命じられた責任を取り、自害したとも伝えられています。

秋田藩の江戸留守居役だった朋誠堂喜三二も、藩主から叱責を受けたうえ、国元への配置転換を命じられました。喜三二は藩命により戯作を厳しく禁じられ、出版界から完全に姿を消すこととなったのです。

蔦重が出版した2冊の黄表紙は爆発的な売り上げを記録し、その心意気は世間の喝采を浴びました。しかし、その一方で、耕書堂の主力として活躍していた喜三二と春町という2人の作家を失う結果にもなってしまいました。

この2人を演じた尾美としのりさんと岡山天音さんは、『べらぼう』の中でもかけがえのない存在でした。小芝風花さん、安田顕さんに続き、2人の退場もまた「ロスに陥りそう」という声が上がりそうです。

恋川春町 wiki

平沢常富(朋誠堂 喜三二)wiki

度重なる弾圧を跳ねのける蔦重の挑戦

寛政の改革が始まってから3年後の1790年、松平定信は出版物に対する統制をさらに強化しました。

定信はその1年前、幕府の旗本・御家人救済を目的とする法令「棄捐令(きえんれい)」を発布しています。この法令は、幕臣たちが札差から借りた借金の一部を帳消しにするものであり、町民たちからは「幕臣だけを救うものだ」として不評を買いました。

定信は、庶民階級に対しても農村復興のための低金利での公金貸付や、関東圏の経済振興を目的とした資金貸付を行うなどの政策を実施していました。しかし、過度に厳しい政策を強いた反動もあり、これらの経済政策はあまり高く評価されなかったようです。

1790年の出版統制では、政権批判を含む時事ネタや風刺、恋愛・性愛を描く好色本、さらには華美な装丁を施した出版物などが禁止されました。

こうした統制に抗うように、蔦重は浮世絵師であり戯作者でもある山東京伝(古川雄大)と組み、3冊の洒落本を刊行します。

山東京伝(北尾政演)wiki

洒落本は、吉原などの遊里を題材とした小説で、”通”(つう)という美意識を主題に、遊女と客との駆け引きや、通人ぶる野暮な客を茶化す内容が特徴でしたが、そこには暗に松平定信の政治を批判する意図も込められていました。

これに対する幕府の動きは素早く、洒落本三部作を直ちに摘発し絶版としたうえで、作者の京伝には手鎖五十日の刑、蔦重には身代半減(財産の半分没収)という厳しい処分を下しました。

この弾圧により、蔦重は大きな打撃を受けますが、浮世絵の出版という新たな事業を立ち上げ、再び巻き返しを図ることとなります。

喜多川歌麿と東洲斎写楽の活躍

この事業で蔦重が抜擢したのが、無名時代から支えてきた喜多川歌麿(染谷将太)でした。歌麿が描いた大首絵は瞬く間に大ヒットし、歌麿は蔦重のもとでその才能を存分に開花させます。

大首絵とは、人物の上半身のみを描き、顔を大きくアップにすることで豊かな表情や現実感を表現した錦絵です。モデルに市井の看板娘を起用したことも、江戸っ子たちの購買意欲を大いに掻き立てました。

喜多川歌麿「寛政三美人」 wiki

歌麿の大首絵が大成功を収めた後の1794年、蔦重はさらに大きな勝負に打って出ます。それが、東洲斎写楽による役者絵の出版でした。

写楽はわずか10カ月の間に140作もの役者絵を描き上げ、その全てを蔦重が出版しました。しかし、写楽の絵は当時あまり売れず、蔦重の挑戦は失敗に終わったのです。

東洲斎写楽 「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛 」 wiki

その3年後の1797年、蔦重は脚気が原因で、48歳の生涯を閉じました。

蔦重が活躍した後半の10年間は、幕府の弾圧との戦いの日々でした。おそらく、彼の人生の中でも最も辛く、苦しい時期だったことでしょう。

それでもへこたれることなく、自らの綺羅星のごとき才能を武器に、光り輝く人材を発掘し、プロデュースすることで、江戸文化の発展に大きな功績を残した蔦屋重三郎。

そんな彼の後半生を、森下佳子氏がどのような脚本で描くのか、楽しみでなりません。きっと、笑いと涙に満ちた物語として、視聴者を大いに楽しませてくれることでしょう。

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