大河ドラマ『べらぼう』で水樹奈々が演じる、実在した女性狂歌師・智恵内子とはどんな人物なのか?予習
五七五七七の三十一文字(みそひともじ)に世相を詠んだ狂歌。なかなか表立って言えない本音を鋭くユーモラスに表現したことで、一大ブームを巻き起こしました。
男性だけでなく女性も多く狂歌師として活躍しており、今回はそんな一人・智恵内子(ちえの ないし)を紹介。
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、水樹奈々が演じることが発表されています。
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智恵内子と元木網
智恵内子は延享2年(1745年)、武蔵国川越小ケ谷(現代の埼玉県川越市)に生まれました。
本名は内田すめ、あるいは通(つう、みち)とも呼ばれています。
智恵内子とは狂歌師として活動する際の狂号。「智恵が無いしor無い子」と女房名の「~内侍(ないし。例:小式部内侍など)」をかけた洒落でした。
こんな狂号を名乗るあたり、彼女は謙遜と奥ゆかしさ、そしてユーモアを兼ね備えた女性だったのでしょう。
※便宜上、以下「智恵内子」で統一します。
やがて成長した智恵内子は江戸の京橋北紺屋町で湯屋を経営していた大野屋喜三郎(のち元木網)と結婚します。
結婚の時期は不明。ただし喜三郎の娘が宝暦13年(1763年)に夭折しているため、智恵内子が娘の生母とすれば、これ以前に結婚したと考えられるでしょう。
大野屋喜三郎もまた狂歌師として活躍しており、狂号は元木網(もとの もくあみ)。元の木阿弥に由来しますが、彼の人生で何があったのかと気になりますね。
二人の間には娘が生まれており、彼女は後に幾地内子(いくじの ないし。意気地無し)と名乗りました。引っ込み思案な性格だったのでしょうか。
江戸の三内子
智恵内子は明和6年(1769年)ごろから夫と共に狂歌師デビュー。夫が主宰する落栗連(おちぐりれん)に参加して、数々の作品を発表しました。
智恵内子の作風は日常生活のあれこれ(尽きない苦労やささやかな楽しみ等)をテーマに取り上げ、女性らしい品のよさで表現しているのが特徴です。
狂歌にありがちな笑い重視の滑稽さとは一線を画しており、あたかも「お江戸にやってきた平安の女流歌人」を思わせました(少なくとも、そういう趣向がうかがえます)。
そんな智恵内子は節松嫁々(ふしまつの かか。朱楽菅江の妻)と並び当代随一の狂歌師として活躍しました。
また”ひまの内子(暇が無い)”や世話内子(世話が無い)と並ぶ「江戸の三内子」とも称されています。
引退後の晩年
やがて天明元年(1781年)に夫と共に引退。芝西久保土器町へ引っ越してからは後進の指導に当たりました。
鹿津部真顔(しかつべの まがお)の数寄屋連(すきやれん)をはじめ多くの狂歌師たちを指導する形で、天明期の狂歌界を牽引します。
また智恵内子は狂歌師としてだけでなく戯作者としても活躍。『狂文宝合記』に入集し、序文も任される程でした。
ほか未刊行の作品として『たぬきの草紙』が伝わっています。
晩年は娘婿(幾地内子の夫)である小川平七(おがわ へいしち)に迎えられ、飯倉で暮らしました。
やがて孫婿である岸本由豆流(きしもと ゆずる)に引き取られて白銀町で暮らし、文化4年(1807年)6月20日に亡くなります。享年63歳。
法名は芳春院園誉妙栄大姉(ほうしゅんいん えんよみょうえいだいし)。正覚寺に葬られました。
終わりに今回は江戸時代を代表する女流狂歌師・智恵内子について、その生涯をたどってきました。
果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、水樹奈々がどのように演じてくれるのでしょうか。
元木網(ジェームス小野田)ともども、夫婦の掛け合いが楽しみですね!
※参考文献:
『増補 大日本女性人名辞書』新人物往来社、1980年3月 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年11月 『日本古典文学大辞典』岩波書店、1985年2月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
