南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【後編】

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南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【後編】

共存から合体へ

【前編】では、南北朝時代の南朝方が、権威を失った亡命政権では決してなく、一定の権威を保ちながら北朝とも共存関係にあったことを解説しました。

南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】

【後編】ではこの共存関係や両者が合体に至るまでの経緯を深堀りし、その後の動向についても見ていきます。

幕府にとって南朝は常に「抵抗勢力の旗印」となり得るやっかいな存在だったものの、時に一定の軍事的打撃を与えるだけで、決して武力で葬り去ることはしませんでした。

それどころかたびたび和議を持ちかけており、ようやく1392年に足利義満のもとで南北合体が実現したのです。

鹿苑寺蔵・足利義満像(Wikipediaより)

たとえ武力で南朝を滅ぼしても、いずれ残党が決起する恐れがあります。反幕府の大義名分が成立する余地を残さないためには、あくまで平和的に南朝と合体する必要があったのでしょう。

南北の合体により、皇位のしるしである三種の神器は、南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲渡されました。

この結果、南朝は、自らが正統だったという体面を一応は保つことができましたが、結果的には北朝に吸収され朝廷としての実体を失います。北朝と幕府は、名を捨てて実を取ったと言えるでしょう。

血生臭い「その後」

さて最後に、その後の南北朝の動向についても見ていきましょう。

南北朝合体の際、皇位は北朝と南朝が交互に継ぐとされましたが、この合意は守られず、北朝だけの継承が続きました。旧南朝の君臣は、皇位回復を求めて蜂起を繰り返しています。

しかも1410~16年には後亀山上皇が再び吉野に潜伏。1428年には伊勢(三重県)の国司・北畠満雅が後亀山の孫・小倉宮を奉じて挙兵しました。これに対して幕府は満雅を討ち、続けて小倉宮たち多くの旧南朝皇族を出家させています。

後亀山天皇(上皇)像(Wikipediaより)

皇位の望みを絶たれた南朝遺臣は1443年、内裏から神器を強奪して比叡山に立て籠もります。

幕府はこれを朝敵として討伐し、反乱軍が担いだ後村上天皇の曾孫(通蔵主、金蔵主)も殺害されました

残党が神器とともに吉野の川上にかくまった別の南朝皇族(一宮、二宮)も1457年に討たれ、翌年に神器も取り戻されています。

その後は応仁の乱(1467~77年)の最中に、西軍が小倉宮の子孫を「南帝」として迎えた記録がありますが、これは一時的なものに終わりました。

朝廷としての実体も権威も失っていた以上、もはや大勢に影響を与えることはなかったようです。

しかし、南北朝が合体したにもかかわらず事態は相変わらず血生臭く、応仁の乱から戦国時代へと続く混乱の火種は、こうした形でずっと燻っていたと言えるでしょう。

祀られる南朝皇族

奈良県川上村には、1457年に討たれた南朝皇族「自天王(尊秀王)」の遺品が伝わっており、毎年2月に地元の人々によって朝拝式が営まれています。

秋の川上村

先述の通り、南朝の流れを受け継ぐ皇族は悲運の最期を遂げたわけですが、自天王もその中に含まれていました。

惨事を伝え聞いた川上郷士たちは、赤松家一党から自天王の御首を取り返し、地元の金剛寺に手厚く葬ったと伝えられています。

御首を奪い返した川上郷士の雄志は代々語り継がれました。その後、長禄三年(1459年)から毎年2月5日になると、この重要文化財である遺品の兜などを拝する式典が行われています。

参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
奈良県川上村
画像:photoAC,Wikipedia

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