悲劇の指揮官…中国友好を望むもA級戦犯として処刑された日本陸軍・土肥原賢二がたどった運命

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悲劇の指揮官…中国友好を望むもA級戦犯として処刑された日本陸軍・土肥原賢二がたどった運命

土肥原賢二という人物

最近は、終戦後のいわゆる東京裁判の正当性について議論されることが多いですが、裁判の結果A級戦犯として処刑された軍人たちの中には、悲劇的な末路としか言いようのない人もいました。

土肥原賢二(Wikipedia)

今回は、その中でも土肥原賢二という人物についてご紹介しましょう。

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土肥原は、戦時中に中国で数々の工作活動を主導した人物です。

彼と中国との関わりが始まったのは、陸軍大学校卒業後に参謀本部付で北京に駐在したことでした。

その後、土肥原は天津特務機関長を務めるなど、諜報のスペシャリストとしての道を歩んでいきます。

そして1931年3月には再び中国出張を命じられ、夏には関東軍司令部付で奉天特務機関長となりました。

こんな経歴もあってか土肥原は中国語に堪能で、現地の中国人の知り合いも多く、性格は温厚だったといわれています。そのため、中国人からの情報が自然と土肥原に集まるようになりました。

もともと彼は人格を重んじる性格で、特に教育方面に高い関心を持っていた人物だったといわれています。

当時の陸軍組織の中では知識偏重のエリート主義意識が強い軍人が多かったのですが、そんな中でも珍しく、玉川学園の小原國芳の唱える新教育の理解者であり、支援者でもありました。

悲劇の指揮官

しかし彼が奉天特務機関長となった1931年の9月18日、関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破させます。柳条湖事件です。

関東軍はこれを中国軍の犯行と発表して軍事行動を開始し、満洲事変のきっかけをつくります。そして最終的に満州を占領するに至りました。

この一連の事変と土肥原は無関係だったのですが、奉天特務機関長というポジションゆえに、事件後の2日には満洲事変を主導した石原莞爾板垣征四郎との会談が行われています。この席で、普段は温厚な土肥原は満蒙五族共和国案を強く推しました。

その後、土肥原は天津にいた清王朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を連れ出し、満洲国の皇帝として擁立します。こうした活躍から、土肥原は「満洲のローレンス」と呼ばれるようになりました。

満洲国皇帝時代の溥儀(Wikipediaより)

その後は、地方軍閥を中国政府から離反させる工作に従事し、1935年6月には「土肥原・秦徳純(しんとくじゅん)協定」を締結します。この協定により、河北省に冀東(きとう)防共自治政府が成立しました。

しかし終戦後、A級戦犯として土肥原は逮捕され、東京裁判で死刑判決を受けることになります。

そこで土肥原の極刑を強く求めたのは、皮肉なことに土肥原が友好を望んでいた中国でした。彼は一貫して日中親善を信念としながらも、日本の対中政策の尖兵となった悲劇の指揮官と言えるでしょう。

参考資料:別冊宝島編集部『日本の軍人伝説の指揮官に学ぶリーダーの条件』(2024)
画像:photoAC,Wikipedia

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