写真もないのになぜ…?新選組・沖田総司が“最強の美青年剣士”として語り継がれる理由 (2/3ページ)

Japaaan

姉・みつの孫・要をモデルに描かれた沖田総司のイメージ

沖田総司ってそもそもどんな人?

沖田総司は1844(天保15)年又は1842(天保13)年、陸奥の白河藩士江戸下屋敷詰め(足軽頭)・沖田勝次郎の嫡男として江戸の白河藩邸(現在の東京都港区西麻布)に生まれました。

後世の作品での描写のとおり、天才的な剣の才能のあった彼は、9歳で天然理心流の道場・試衛館に入門し、19歳で免許皆伝となり、道場の塾頭も務めました。

その実力は「本気で立ち合ったら師匠の近藤でもかなわないだろう」とまで言われるほどだったというから驚きです!塾頭としての指導を受けていた門人によれば「荒っぽくて、すぐ怒る」「近藤(勇)先生より恐ろしい」という評判もあったのだとか。

新選組時代には敵対勢力の人間や、兄のように慕っていた山南敬助を含む隊則に背いた者を何人も斬っていますが、その一方で普段はいつも冗談を言って笑っているような明るい性格で、近所の子供たちともよく遊んでやっていたといいます。

1863(文久3)年、「浪士組」の結成に伴い京都へ入り、その後新選組の一番隊組長となりました。有名な「池田屋事件」のときは真っ先に斬り込んでいったものの、直後に倒れて戦線離脱。

この時の病気は当時不治の病だった肺結核で、一説にはこの後新選組の活動から離脱したともいわれています。

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