「江戸は寒村」はウソだった!?豊臣秀吉と徳川家康の”国替え”に隠された壮大な戦略とは?【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

江戸は統治の要

これについて近年の研究では、家康が豊臣政権の東国政策で制圧地域の統治に尽力する役割を果たしたことがポイントだとされています。

当時の関東奥羽は不穏な情勢にありました。そこで江戸を統治の要とすることを秀吉は考えており、家康の江戸入りはその構想に基づいて考えられた政治的処置であったと考えられます。

これについては、秀吉が徳川の勢力を警戒し、へき地の江戸をあてがったとする謀略説も古くから存在しますね。しかし最新の学説では、秀吉はむしろ江戸の重要性を認識していたとするのが一般的です。

豊国神社の豊臣秀吉像

ちなみに北条氏の最大版図を築いた4代目・氏政は家督を氏直に譲った後、ご隠居様と呼ばれ、江戸城に移りました。

もともと家康は氏政と同盟関係にあったため、江戸の状況を把握しており、北条氏の領国経営を一部踏襲しています。

つまり家康は未開の地である江戸を開発したのではなかったのです。北条氏の城下を下地にしながら、江戸の可能性を掘り起こした点に家康の真価があると言えるでしょう。

家康以降の「天下普請」

さてその後、関ヶ原の戦いで西軍に勝利した家康は、幕府の拠点となる江戸の街づくりを本格化させます。

ご存じ「天下普請」と呼ばれる諸大名への課役により、神田山を切り崩し、日比谷入江の埋め立てを行いました。

江戸城内でも、大規模な石垣や瓦葺きの天守を建築する大工事が行われました。

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